近所の料理屋にぶらりと寄ってそこで夕飯とする。
カウンター席に二人並んで座った。
注文の決定権はわたしにない。
わたしは単に希望を述べることができるだけであり、聞き入れられるかどうかは家内の胸三寸にかかっている。
今日のおすすめどころを家内が聞いて注文していく。
わたしはそのやりとりを黙って眺めるだけのこと。
わたしが注文したのではあり得ない。
ヘルシーを絵に描いたようなメニューが続くことになった。
魚と草の国に紛れ込んだようなものであった。
だから記憶に残らない。
覚えているのはアンコウの唐揚げとブリカマの塩焼きくらいである。
ビールのあと、隣席のおじさんらを真似て、麦焼酎のお湯割りを頼む。
もちろん梅干しトッピングも忘れない。
二人して梅干しをくずしながら、負け組の話になった。
男の子しかないママは負け組なのだと、ママ仲間から聞かされたようである。
ばかばかしい。
わたしはそう反応する。
負け組の話になったらキリがない。
負けの要素に光をあてれば、あれもこれもと無数に浮かぶ。
顔も頭も懐も、職も身なりもこの先も、あらゆる部分でぱっとせず、俯瞰してみればマラソンコース走る一団の最後尾にあって、さらに後続にも抜かれそうというのが、わたしたちの実像であろう。
なにもわざわざ男の子しかないからという一点をとらえずとも、隠すまでもなく全部が目立つ森のなかの木、林立するほど負けの墓標に埋め尽くされている。
だから、勝った負けたという話になっても黒星だらけで収拾つかず、取り上げるだけ徒労、いかにもばかばかしい、となる。
勝った勝ったと得意になるのは余裕ある先頭集団にまかせ、わたしたちは負けを直視し受け止めて、倦まず弛まずつつましく、完走できれば御の字という姿勢で負け組人生を穏やかに過ごそうではないか。
笑顔まで浮かぶほどのすがすがしい負けっぷりから、子らも大事な何かを学ぶだろう。
そんな風にあれこれ話すうち、部活を終えた二男が帰宅する時間が近づいた。
さすが母親。
献立から息子の好きそうな品を選び、弁当にしてくれと家内が板前さんに注文した。
弁当ができるまで、二人で最後はハイボール。
別に負け組だって、そんなに悪くない。