「男と女が戦争したら、絶対女が勝つよね」。
「うん、女が勝つ」。
場所は芦屋駅前。
自転車にまたがって信号待ちする少年らの話が耳に入った。
信号が青に変わり遠ざかって行く彼らの背を見つめ同じ男子として心分かち合うような思いとなった。
すでに小学生にして彼らは男女力学の根本原理について感知しているのだった。
そう、勝てるはずがない。
相手は無敵、束になっても無理でありすべて講じる策は水泡に帰す。
特にここら地域では楯突いただけで粛清の憂き目をみるといった話であろう。
あたりを見回す。
爪の先から髪の先までまるで完全防備といった様で着飾ったご婦人方が幾人も目に入る。
自然体に見えその気合いの入りようは心斎橋をこれ見よがし歩く思春期十代の女子をも凌駕するものであり、身を飾る戦利品は十代女子が何年バイトしても手の届く額のものではない。
すべて顔見知り、四方八方から注視されるとも言える街のサイズである。
生活の風下に置かれ無頓着に着流す中年風情は蚊帳の外に置かれ、フィールド内においては遍歴の騎士のごとく完全武装した者同士らによる相乗効果で高いレベルの均衡が保たれている。
この演出のレベルは細部にまで渡り、たとえ家の食卓では家族揃ってコロッケやカップ麺を食べていたとしてもそれはおくびにもだしてはならぬという不文律が厳と存在し、高貴たるイメージが損なわれぬよう生活も装いも言葉遣いもすべてが凝りに凝って、他所者からすれば見ているだけで肩が凝るというようなものとも言える。
仕事の現場で力せめぎ合う日常に置かれる男子にしてもここまでの緊張を強いられることはなく、所詮は生ぬるい場を泳ぐ温帯魚のようなもの。
ヒートアップする場を適温と好みキラキラ過ごす熱帯魚は時に獰猛であって温帯魚が太刀打ちできるはずがない。
その構造を今は遠目に見る自転車の少年らも、いずれは熱帯魚に捧げられるのだと観念しているのだろう。
少年の背からそのように見て取ったが、うがち過ぎだろうか。
子らに伝えるとすれば、どの道負けるのであるから、せめてお手柔らかにという線が目指す着地点となる。
ポイントを絞って探せば必ず常温でも優しく暮らせる女性は見つかるはずである。
その際は周囲女性の意見が結構参考になるだろう。
なぜなら男には盲点があってその熱帯魚性を事前には識別できないからである。
良い方と巡り合えるよう幸運を祈る。