KORANIKATARU

子らに語る時々日記

大学という母港

近鉄長瀬駅から一斉に掃き出された人波にのって進む。
近大前商店街は学生らで埋め尽くされ、若いエネルギーと5月の陽気が相俟ってムサ苦しいほどの活気を放っている。

ちょうど昼時。
軒を連ねる飯屋はどこも盛況で、人気店の前には人だかりができている。

そう、それは秩序ある列ではなく、カオスそのもの。
人だかりという以外に形容のしようがないものであった。

そして更に目を見張ったのが、味店「焼マン」の前の黒山であった。
まさに押し寄せる群衆。
雅か麗しい和の国の光景からかけ離れたものであった。

店先掲げられた手書きの品書きが短冊のように風に吹かれている。
テイクアウトの丼屋のようである。
牛であれ豚であれ鳥であれ何であれ焼いて白飯に乗っければ、丼飯の一丁上がり。

まさに学生にもってこい。
単刀直入な飯屋であって実に清々しい。

焼マンを過ぎるとまもなく近大西門が見えてきた。
約束の時間より早くに着いたのでキャンパス内をぶらりと歩く。

一人の学生とすれ違う。
彼は見知った目上にするように親近感たっぷり「ちわー」とわたしに向け挨拶の言葉を発した。

もちろんわたしは彼など知らない。
だから無視した。

そのまま数歩進んで、ふと思う。
あれは決して空耳ではなく明確な挨拶であった。
もしや知った人間だったのだろうか。

それで、わたしは振り向いた。

相手も同じ。
彼も同様、こちらを振り向いていた。

目が合った。
やはり見知らぬ若者であるとわたしは確信し、彼はひと違いで挨拶したことに気付いたようであった。

わたしたちは知らぬ者同士。
視線を元に戻し、各々の日常へと回帰した。

まもなく着信があって場を移して面談に臨んだ。
今日もまた出合いに恵まれた良き日となった。

帰途、焼マンの前の人だかりはすっかりはけていた。

通り過ぎるとき、なかに目をやってすべてが諒解できた。
店が人気博する理由は一目瞭然であった。

焼マンという口にするのも躊躇われるような名の店にあって、店員女子はクールビューティ。
そこに雅やか麗しい我が国の佇まいが見て取れた。

若者男子が殺到するのも無理はない。

汗ばむような陽気のなか、学生街を歩いてなんだか楽しい。
学生らの陽性のエネルギーを注入されたようなものとも言えるだろう。

2年前のGW。
家族を連れて東京を旅したある早朝、家内伴い神楽坂から早稲田あたりを散歩した。

くっきり明瞭な青空を背景に大隈講堂はその朝もそこに屹立していた。
家内とは様々な場所を一緒に歩いてきたが、その朝の思い出はわたしのなか屹立したものとなっている。

今度は学生らの姿がそこにあるときを見計らって訪れようと思う。
集まり散じて人は変われどそこにわたしの青く未熟で未完のままの初心、つまりは夢と理想があるはずであり、そこに結集する若者らを目にすればたちまちにして生気吹き返すに違いない。

だから何度でも訪れるに値する母屋のようなものと言え、つまりは現場百遍。
わたし自身の原点であり常なる総点検の場所であって、またわたし自身にとって純正のエネルギーと接続できる場所とも言える。

やはり大学はいいものだ、たまには大学に帰ろう。
そう思い立つ日となった。

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