KORANIKATARU

子らに語る時々日記

ぼろをまとえど心は錦

土日もなんやかやと仕事する。
そう話したとき、グリは言った。

時間管理がなってない。

一理あると思って改善を試みたが、結局は自分にとって最も自然な形に落ち着いた。

土日が仕事に費やされてもそれで苦痛を覚えることは全くない。
これがわたしにとっての楽な姿勢、楽な日常なのだった。

強弱で言えば弱の部類ではあるが、用事がないより弱でも土日にあった方が調子よく、リズムよく月曜日に入っていける。

この歳になってしばしば自らを見つめ直すが、勤勉さにはますます磨きがかかって、これはこれで結構すごいことのようにも思える。
必ず早起きして仕事し、タバコは吸わず賭け事もせず、お酒を飲むにしても週に1、2回。
若い頃にはあり得なかった。

絵に描いたような勤勉である。

それは子らも感じ取っているに違いない。
尊敬する箇所見当たらず風彩あがらぬ父ではあるが、取り柄のひとつくらいはあって、それが勤勉。
そんな風に彼らのなかひとつでも残るのであれば誉れなことである。

見つめ直すついでに言えば、モノを買わない、これも取り柄の一つに数えられるかもしれない。

自分の持ち物が草臥れて、みっともないように思えて買おうと思うが、つまるところ自分はそれでも構わないので、結局買わずにボロをボロのまま使うということになる。

いつ頃からだろう。
見かけをさほど気にしなくなった。

類は友を呼ぶで、わたしのまわりも似たようなもの。
見かけに神経尖らせるような男はひとりもいない。

これも子らには意識的に伝えておくべきことだろうと思う。

自我が未熟な思春期ならいざしらず、大人になれば自らが取り組むテーマが最優先。
自分の本質的な活動に真っ向ぶつかっていれば、見かけがどうのと構っていられず、いまあるものを大事に使うのがもっとも手っ取り早くて、モノを買うのが面倒ということになる。

これが好循環を生む。
内的充足はから騒ぎのような消費を誘わず、高度安定した生産活動を継続させて、更に好循環が強化されていく。

だから大人になってまでモノのケツばかり追っていると、その不安定と悪循環を見透かされることになる。

なんだかモノが欲しくてたまらない。
そんな衝動が生じたときには、実は何が起こっているのか自身の胸の内をとくと観察してみることである。

その場しのぎの対処療法を求めているに過ぎないのだと聡い者なら気付くはずである。