そんなこともあるのだろう。
何にでも終わりがあって、人間関係も例外ではない。
大半の人間関係は天寿全うするかのような円満な別れを迎えるのだろうが、なかには突然死もあるようだ。
兄貴分として慕う方がいた。
子分のように付き従い酒場で深夜まで過ごすこともしばしばあった。
が、いまや交流は全くない。
音信が途絶えたままなのも変だと思って、先日連絡をとってみた。
飛び込みの営業マンにさえしないような素っ気ない返答があっただけであった。
それでわたしも察した。
この関係はとっくに終わっていたのだった。
どういう経緯でこうなったのか、尋ねるのも野暮である。
せっかく続いた人間関係が途絶えることは勿体ないが、相手がそう意思するならそれはそれで仕方がない。
原因に覚えはないが、心当たりが浮かばないこともない。
ものごとの取りようは人それぞれ。
例えれば、ドッジボール。
敵味方入り乱れるなか流れ弾に当たって、コンチクショウと投げ手の方に目をやれば、そこにわたしが立っていた。
わたしが投げたのではなくても、そう見える。
さしずめそんな話だろう。
もちろんわたしが何か投げるはずもないので、行き違いという他ない。
敵の敵は味方、敵の味方は敵、味方の敵は敵、そんな大味な光景を絵にして浮かべれば、なんだか女子校っぽい話であって苦笑さえ浮かぶが、そんな冴えないオチであっても人間関係は突然死するのだから薄ら寒いことこの上ない。
誰であれ百人が百人とうまくいくわけではない。
だからこんなことはいつ誰との間でも起こり得る。
だがしかし何にせよ、別れ方というものがあるだろう。
長い付き合いであり、共有した時間は分厚い。
一気にその過去が傷んで壊死するようなものであるから後味は決していいものではない。
この先も時間は流れ、この世は何が起こるか分からない。
ひょんなことから復元するのかもしれないし、しないのかもしれない。
人間関係は思った以上に頑丈で多少のギクシャク、紆余曲折はあっても元の鞘に収まるような再生力を有するもの、そうは思うが、この先のことは定かではない。
そんな風にあれこれ思い巡らせていると、いま良好な人間関係のありがたさが身にしみてくる。
先日は星光の大先輩の松井教授から子らへの差入れとして老舗名店の黒毛和牛を頂戴し、時を同じくしてドクター・オクトパスからは福寿館の黒毛和牛をもらった。
おかげで家内は料理の腕を振るい子らの腹はふくれ、わたしの胸はいっぱいになった。
こんなわたしであっても気にかけてくれる人がいる。
誰かに大事に思ってもらえることほど嬉しいことはない。