客入りの悪い店を見ると胸が痛む。
小さい頃、実家近くの横丁にうどん屋ができた。
開店初日、結構な客の入りだった。
赤の他人であったが店主が喜んでいるだろうと思ってわたしも嬉しかった。
しかし、客があったのはほんの数日だけのことだった。
祖母に頼んでわたしもそこのうどんを食べたが、ピント外れに出汁が濃くいま思い出しても眉間に皺が寄る。
あの優しい、誰にでも心優しかった祖母でさえわたしの耳元で言った。
まずい。
うっかり迷い込むよそ者をのぞいて、客足はすっかり絶えた。
いつ通りかかっても客はおらず、しまいに店主は店を開けたまま奥でふて寝するようになった。
ある日気づいたとき、店はもう取り壊されていた。
わたしは店主の身を案じ、しばらくその店主のことが頭から離れなかった。
このところ近所にできたばかりの寿司屋の前を通りかかるたび、そのうどん屋のことを思い出す。
10席あるうちよくて隅の2席、たいていは無という夜が続いていて、かき入れ時であるはずの週末や休日であっても同じ。
近々撤収となるのは間違いなく店主の胸中を思うと切ないような気持ちになる。
わたし自身はそこで二度ほど食事した。
職人の腕は確かでネタもよく、絶品と言っていいほどの寿司のレベルを思えば、一人一万円程度で済むから高くもない。
実力で言えば流行って当然。
それが閑古鳥となるのは、やはり土地柄にマッチしていないからということなのだろう。
関西屈指の住宅街であり資産家も少なくない。
が、知的レベル高く勤勉と節約を旨とするいわゆる伝統的な資本家精神を有する方が多い土地と見え、そんな方々は日常の寿司に一万ものお金を使わない。
そんなことすればバチがあたるくらいに思っていて、お金の無駄遣いに胸痛めるような感性を親から叩き込まれている。
だからこの地では半値にしてもその寿司屋が流行ることはないだろう。
お金を使うこと自体が悦楽であるという方々であったり、右から左という方であったり、ないのに見栄張って使って見せるような人であったりといった、手裏剣投げるみたいに金離れのいい人らが集まる地に移転すれば、おそらく倍の値でも皆喜んで大枚はたいてくれ繁盛するのではないだろうか。
商売は立地誤ると立ち行かない。
わたしが鮨屋ならお金に関しておおらか気風のいいラテンな土地に店を出し、一方、子育て含めての生活の拠点は真面目堅実なプロテスタント的風土の地に置くだろう。
それが攻守の基本で、逆にしてしまうとこれはもう早晩尽きる儚い消耗戦になるだけだろう。