KORANIKATARU

子らに語る時々日記

駐車場に停めたクルマのなかでただ書いただけの日記

電話を切って確認すると5年ぶりだった。
その方と話をするのは久々、そうは思ったがまさか5年もの月日が流れていたなんて。

時の経過の掴みどころなさに驚くほかなかった。

 

当時わたしは40代前半。
それがいつの間にやら40代後半に至っている。
同じ40代でも前半と後半で大違い。

 

年代というのは10歳刻みなのだと漠然と思っていたが、真ん中を区切りにしても切り替わるようである。

たった5年で次の年代へと召し上げられていくようなものであるから悠長なものではない。

 

そのようなことを思いつつ、時は月末、親の顔をのぞきに仕事の道すがら実家に寄った。
わたしが中年なのだから、当然親は老年に差し掛かっている。

 

時の流れの猶予のなさを目の当たりにするようなものであるが、幸いまだまだ両親ともに意気軒昂。

 

少しばかり話をして、仕事に戻った。
嬉しいことにうちの息子らもたまには各自それぞれ実家に顔を出すようである。

 

暮れゆく時間の一方で勢いよく明けてゆく時間が存在する。


忙しさに埋没しているとついつい自分一個の時間だけを凝視してしまいがちになるが、実は数々の時間とともに生きている。

 

俯瞰すれば、混在する数々の時間だけが実在であって、わたしたちは時間が存在するためのセンサーのようなものに過ぎないのかもしれないとも思えてくる。

 

そしてそのセンサーは時間の量については感度が鈍い。
どうやら質。

実のある時間を感知するためどんどこ投入されるセンサーということなのだろうか。

 

現在地はショッピングモールの駐車場。

行き交う人みながセンサーの類いに見えてきた。