忙しいと余計なことを考えない。
存在自体が「機能」と化すようなもの。
仕事をこなすのに集中し、その他のことは視野の外に置かれる。
複数の課題に手をつけつつ、一つ終われば、そこにまた次の課題が入ってくる。
「機能」に成りきっているとその分、時間の感覚が希薄になっていく。
いまが11月半ばであるということが信じられない。
意識の基底部は、時間を数え忘れてその流れについていっておらず、まだせいぜい9月くらいの認識しかない。
ふと日付を書こうとして、9月ではないと気付きその差に驚く。
一瞬空白が訪れ、また差が広がっていくということになる。
「機能」となっての時間は容赦なく先々進むが、仕事を終えて家に帰ると、そこには昔懐かしいような人間らしい時間が流れている。
時間感覚が生命の実感に結びつき、家で人として息吹き返すということになる。
この夜は帰宅が遅かったので軽めのメニューが出された。
ウマヅラハギの煮付にもやしのガーリック炒め、そして飲み物はペリエ。
夜9時過ぎの中年の空腹にお誂え向きの取り合わせと言えるだろう。
夜10時に門の開く音がした。
上の息子が帰ってきたのだった。
家内は即座にスタンバイした。
小鍋に火をかけ、支度してあった具材を入れる。
長男がテーブルに着くが早いか、特製のうどんすきが献上された。
腰のある讃岐うどんに、えび、かしわ、ゆず、白菜がかしずき、中央ど真ん中に卵が落とされ、さあ、召し上がれ。
夜の10時にうどんすきを作る母。
そう棒読みするように感心し、わたしは家内の動きをスローモーション見るみたいに眺めていた。
ふーはーふーは言いつつ、息子が勢い良くうどんをすすっていく。
わたしはその様子も凝視する。
そこには人間の時間が流れていた。
「機能」として過ごすのとは正反対。
この夜の光景も記憶に深くしっかりと刻み込まれることになった。