ご主人が定年間近になって、子にかかる出費がピークに達する。
当然のごとく奥さんも生計を担い、パートに精出し大車輪で働かねばならない。
そんな話を耳にして、巷間ありふれたエピソードであると思いつつ、その状況の一断片に日本社会の問題点がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだと気付かされる。
引き続く次の一幕では更に苦しく頭痛の種が割増となって現れる。
おそらく暮らし向きはその後もカツカツを余儀なくされ、余力ないまま老境の時を耐え凌がねばならない。
時が進めば進むほど斜面の傾斜は増すばかりで高度成長の頃とは正反対。
正気になって前途を憂えば、壁に爪立て生にしがみつくような像が浮かんで青ざめる。
いまほんのすこし調子良くても、ついうっかりすれば、誰もがそうなりかねない。
たとえうっかりしなくても、不慮の事態は相手を選ばない。
不運の使いにいつ指差されるか分からない。
そう思うと背筋にぞくり、冷たいものが走る。
その昔、水呑百姓という表記をはじめて見たとき、なんてこてんぱんな表現なのだろうと唖然とした記憶がある。
ひどい言葉は数あれど、その最たるものの一つとも言えるのではないだろうか。
そしていま。
遠い昔話だったはずの「こてんぱん」が、ゾンビみたいに息吹き返しつつあると感じるのは気のせいだろうか。
ボロをまとえど心は錦。
そう言えるのは希望があるから。
もし希望がなければ、辛さだけが右肩上がりで増すばかり。
そうであれば、たとえ衣食足りても、気分は水呑み、というようなものだろう。
普通の道を来たはずで、皆と同じ道を来たはずなのに。
気づいたときには行き止まり。
時代が閉塞するというのはそういうことなのだろう。
定年、非正規、肩叩き、賃下げ、窓際、不採用、過労死。
社会というフィールドのなか、強面のディフェンダーらが行く手さえぎろうと手ぐすね引いて待っている。
いまのうちからその動きを凝視して、体ぶつけて正面突破するか、俊足飛ばして寄せつけないか、空いたスペースを目ざとく見つけて悠々走り抜けるか、イメージし準備しておくべきだろう。
早いに越したことはない。