父親が中高の友だちとしょっちゅう一緒に遊び、家でもよく友だちのことが話題にのぼる。
タコちゃんやらマッチャンやらといった愛称が日常の暮らしのなか自然に溶け込み、子らはそんなもんだと学ぶことになる。
子らからすればそっくりそのまま相似形と言えるだろう。
上の息子にもタコちゃんやマッチャンとも言うべき友だちがいて、下の息子にもまたタコちゃんやマッチャンがいる。
父親同様、子らもそうなる。
中年になっても彼らがタコちゃんやマッチャンと遊ぶのは目に見えている。
なぜなら、それが子らにとっては当たり前。
そして、家内からしても相似形。
子らの友だちがうちに泊まってその食事を作るような感覚で、「マッチャンが帰ってきているなら、うちに泊まってもらえば。ご飯作るよ」と、自然そんな話になる。
家内からすれば、夫の友だちも子らの友だちも同じようなもの、相似形。
わたしは夢見る。
いつの日か、息子の友だちが、わたしの連れになって、その友だちがタコちゃんやマッチャンの連れになる。
相似が合同へと至るのは、そう遠くない日のことだろう。