行方知れずとなっていたジャージが不意に見つかり、代替で買ってあったウェアが不要になった。
一つは新品で、もう一つはまだ2回しか袖を通してない。
アディダスのウェアでデザインは今風。
下の息子によく似合うだろう。
上背と肩幅と胸板。
彼の体躯をこそ引き立てる。
そう思うとわたしが着ようなど思わなくなる。
最良のものは息子に。
父となって以来それが当たり前になった。
もちろん、最良が仇となり子をスポイルしかねないような華美軽薄は遠ざけてきた。
質実であるかどうかという見極めは、親が担うべき最大の責務であるに違いない。
親が供する様々な最良のなか、最たるものは学業だろう。
子が通う学校の親はだから多かれ少なかれ似た者同士。
価値観が似通っていて、子を通じてみた世界に対する危機感のようなものも共通している。
上の息子の学校は塾いらず。
東大京大を目指す上でこれほど理にかなった支援システムを備えた学校はそうそうない、とは在校生らの言である。
先生はとことん親身で、カリキュラムも細大漏らさず万全。
なにより前に進もうとの意欲が学校全体にみなぎっている。
が、塾に行く者も少なくない。
空いた時間が少しでもあるなら、学業の完成度をより高めたい。
血気盛んな子らはそう思い、まるで趣味を応援するみたい、そうかそうかと親も合いの手を入れる。
そしてそのような動きが伝播して、腕に覚えある者らが三々五々各地の塾に集結することになる。
どの世界にもその世界なり強い者らがいて互いを刺激し合う。
塾での接点が磁場となり、結局は彼らの自学自習に拍車がかかる。
下の息子の学校も同様。
授業を終え部活を終え、毎夜塾で集結しそこで二次会が行われる。
食欲を増進させるスパイスのような働きを塾が果たしていると言えるだろう。
子が充実する。
それ以外に親が望むものは何もなく、親としてそれ以上に価値あるものはどこにもない。
子が溌剌としていれば、他には何もいらない。
そのとき子は親にとって巨大なロキソニンとなりニンニク注射のような存在となる。
痛みはなくなり、元気が湧き出る。
比喩みたいな、ほんとの話である。