人に喜んでもらうことは嬉しい。
だからといって誰でも彼でも喜ばせるなど能力及ばず到底かなうことではない。
自身が本拠とする守備範囲においてだけでも実現できれば、それで御の字という話だろう。
まず筆頭にあがるフィールドは仕事。
成果をあげ、さすがなどと喜ばれれば天にも昇る。
その逆、空回りし無表情に取り囲まれると全身から汗噴き出し、暑いのか寒いのか、青ざめる。
幸い、後者の悲惨に晒されることはほとんどないので、仕事が「嬉しい」の源泉となって、それで生計も立つから一粒で二度おいしい。
そして、仕事と双璧を成すフィールドが家族。
家族が笑顔でいられるよう、わたしたちは日夜全力投球している。
親が微笑み、子が笑う。
そうであれば素晴らしい。
そう思って一球一球に魂込める。
が、家族の方はそんなこと露ほども知らぬことであるようだ。
その他の笑顔は、受け持ち範囲外のおこぼれのようなもの。
何かの拍子に友人や隣人が喜んでくれたり、どこかの誰かに喜ばれたりすれば儲けもの。
えびすの笑顔が更に上機嫌となって鼻歌のテンポもアップする。
だからもし、喜んでもらえるものがなにもなく、喜んでくれる人がいないとしたら、これは寂しく、究極的に物悲しい話だろう。
喜ばれたくてもその相手がなくて手立てもない、それをこそ孤独と言うのかもしれない。
孤独は徐々に着々、その人格を損耗させていくから、恐ろしい。
そうなるくらいなら、何だか分からない者どうしで寄り集まって、何だか分からないようなことで喜び合っている方がはるかにマシ、となるのが人情というものだろう。
しかし、心もとないような漠とした場に拠って立ち大はしゃぎしたところで、そこにえびす顔はなく鼻歌も生まれない。
そんな空虚と無縁でいられるのも仕事があって家族があるお陰と言える。
手応え確かな喜びとともにある方が、そりゃ嬉しいに決まっているだろう。