カウンターにはわたしたちを含め3組の客があった。
左隣の夫婦は娘のことを話題にし、学校や塾について大将も交えて楽しそうに話をしている。
洛南との言葉が聞こえてきたので、えらく優秀な娘なのだと分かり、元をたどれば隣の二人、この夫婦もきっと頭がいいのだろうと察せられた。
身なりはいいし雰囲気もとても上品。
案の定、夫は東大寺出身であるのだということが会話の内容から判明した。
やはりとびきり頭がいい。
店の常連に33期が何人もいるので、大将との共通の話題として自然わたしは大阪星光について話すことになる。
その輪に入って馴染み深い甲陽生が隣席にあって、仕事の関係で何人か甲陽の方も知っているので、これまた自然、甲陽についても話をするということになる。
そのように過ごし、店も暖簾という時刻、右隣の客とも言葉を交わし医師だということが分かったのであったが、やはりどうやら小さな世界、そこで得られた断片から、後日、その人物が灘出身なのだと分かった。
狭い空間である。
3組の客がてんでばらばらに話したところで、互い他の客が交わす会話はほとんど耳に届くはずで、かつ、大将に会話のボールが集まってそのこぼれ球を拾う形で他の客が話題に入っていくことだって可能な距離感。
最初からそうと分かっていれば、少しばかり気後れしわたしが話す内容は変わっていただろう。
わたしも中学受験をし、子も中学受験をし、友人はみな中学受験組でその子どもたちもほぼみな中学受験を通過する。
そんな環境にどっぷりつかれば、灘、という言葉にズドーンと反応するのは無理なからぬことである。
関西中学受験の世界観であのカウンターの構図を振り返れば、まさに左右にキングとクイーンが居並ぶ絵柄のなか、捕獲された宇宙人のような場違いさでわたしはバンザイしていたようなものであった。
どう背伸びしたところで届かない。
その断絶感は中学受験をやった者でないと分からないことだろう。