終業の間際、上の息子が途中下車し事務所に姿を見せた。
腹が減ったから寄ったという。
息子がラーメンを食べ終えて戻ってくるのと入れ違い、わたしはジムへ行き軽く走る。
耳にするのは昭和歌謡。
親父世代の流行歌に当時の世相を感じ味わい静かに走った。
シャワーを済ませ、息子をピックアップし帰途につく。
クルマのなかであれこれ話す。
交わす言葉数は多くない。
音楽も流さない。
聞こえてくるのは雨滴はねる音くらい。
車内は静まりかえっている。
ぽつり、ぽつり。
そんな会話ができるくらいには大人になった。
無骨で荒削りだった腕白が、しんと静まる何かを感知し、誰かにそっと寄り添える人物へと成長しつつあることが親として嬉しい。
誰か人の気持が分かる人と一緒にいれば心やすらぐ。
安心感が深まるような関係には必ず相手を思うセンサーが介在していて、そのセンサーが人を芯から落ち着かせる。
世には人の気持が分かる人がいて、その一方、それがどうしたと思う人もいる。
後者と過ごすのは、砂漠で唾飲み込むような乾きに見舞われるようなものであり、辛くて苦しい。
ウルトラマン同様、3分でカラータイマーが点滅しはじめるというようなものだろう。
幸い、33期の仲間など周囲はみな前者。
だから会えて嬉しくまた会いたい、となる。
分かりやすくいえば、優しい、という一語に集約できる話なのかもしれない。
たとえば、ランダムに挙げれば森山。
このワンワードだけで、その面影、表情、仕草が浮かんでみな温かな気持ちになったはずである。
誰もが森山に会えてよかったと思うし、いつまでたっても懐かしい。
誰に置き換えても当てはまる。
タコちゃんでもアキオでもシブでもキョウでも、置き換えのきく名は数限りない。
だから折りに触れ、同じ湯加減どうし集まって過ごすということになる。
うちの息子も一個の人物としてそんな湯加減を醸し始めた。
寿ぐべきことである。
まもなく家に到着。
玄関をあがって驚いた。
家がピカピカである。
家内が一日がかりで掃除したのだという。
家がキレイだと気分がいい。
疲れも一気に取り払われる。
そうこうしているうち、雨のなか下の息子も帰ってきた。
荷物をどっさり抱えている。
化学の参考書を手当たり次第に買ってきたようだ。
思い起こせばわたしも同じ。
化学が分からず参考書を買ったことが懐かしい。
それで克服できたので息子もまもなくそれを得意科目とするのだろう。