電車が動き出す気配は全くなかった。
しびれ切らしたのだろう。
梅田で待機中の息子からSOSが入った。
午後2時半、仕事を切り上げクルマ走らせ梅田に向かった。
クルマで10分程の距離のはずが、車両ひしめき合って進まない。
梅田は梅田でもよりにもよって茶屋町。
現地にたどり着くだけで一苦労であった。
息子は友だちと一緒にいた。
彼の家は宝塚だという。
目的地を宝塚に定めクルマを発進させた。
芝田側から新御堂に入る道は長蛇の列。
全く動かないので、サイドチェンジを試みることにした。
新御堂を一旦は通り越し、Uターンして反対側にまわる。
読みどおり、少しはスムーズに目的を達せられた。
が、そこからも大渋滞。
江坂駅をすぎるまではチャリンコ以下のスピードを余儀なくされた。
同じ頃、学校で待機する長男は義父に迎えを求めていた。
生半可ではない25号線の混み具合が目に浮かぶ。
FMcocoloではヒロ寺平さんが朝からずっと話し続けている。
各時間を彩るはずのDJらも地震のあおりを受けているのだろう。
この混みようでは時間の目算が立たない。
予約時間である夕刻5時の到着、その困難が容易に見通せた。
それで、たかおか歯科クリニックに電話しやむなくキャンセルする旨告げた。
息子の友人らからさまざまな情報が伝えられる。
徒歩で帰った者らがいて学校にまだ待機する者らがあった。
午後4時半を過ぎようやく宝塚駅に到着した。
阪急電車が動き始めた、という情報が入ったのはちょうどそのときだった。
学校にはチャーターされたバスが向かい待機組を各方面へと送り届けるということだった。
長男は無事家内の実家にたどり着いた。
どこもかしこも混み合う道を走破し我が家に着いたときにはもうクタクタであった。
二男の学校は明日も休校とのメールが入り、少しゆっくりしようと家内伴い息子と三人で近所の焼鳥屋で食事することにした。
このときのご馳走は、平穏。
沁み渡る平穏を味わいつつわたしはビールの次に中々のお湯割りを注文した。