ごくごく若い頃のこと。
週末土曜、行くところもなく連れ立つ相手もなく、やむなく一人で過ごすという時期があった。
ひとり暮らしであり身寄りもない。
孤独は心身を蝕む。
もちろん状況を打開しようとそれなりに悪あがきはしてみた。
土曜の朝に意中の人に電話して、前もって準備した雑談を披露し、どこかへ行こうとの流れに話を持っていこうとするのだが、その前に、電話の向こうにはとっくに予定があって、これから誰かとどこかへ行くところだということが分かっただけで、ため息とともに電話を切る。
そんな土曜が幾週も幾週も続いた。
仕方ないので朝も昼もコンビニで食事を買い、ぶらりと街へ出てすることもなくラーメン屋などで夕飯を済ませて一人の部屋に帰ってくる、という何ら精彩のない週末を過ごすしかなかった。
孤独は心を摩耗させて暗くする。
いったいこの時期にどれくらいの量の本を読んだことだろう。
しかし、冬来たりなば春遠からじ。
週末、どこかに出かけるくらいの友だちはできた。
待望の春。
嬉しいはずであったが、結果は予想と異なった。
孤独は癒えた。
しかし、本当に身勝手な話であるが、いちいち出かけるのが面倒で、一緒に過ごすのも邪魔くさいと感じることも少なくなかった。
適当に放っておいてもらわないと苦痛であった。
冬から春を通じ学んだ。
わたしは一人で過ごすのが好きなのだ。
孤独を余儀なくされることは嫌であったが、孤独でないのであれば孤独を好む。
そんな身勝手にもほどがあるような性分なのだった。
わたしのそんな性質は仕事と家庭という分業体制において本領を発揮した。
家族があるから孤独ではなく、仕事において思う存分孤独を満喫できる。
もし家族がなければ寂しくて心が痩せて仕事に没頭できなかっただろうし、もし仕事と家庭の両立を求められ家事の分担を求められたり、しょっちゅう家族で過ごすことを求められたりすれば、暮らしの水が合わず小競り合い絶えぬ家庭模様となったに違いない。
太陽系のなか地球が絶妙な位置に恵まれたように、わたしは女房に恵まれた、と言えるのだろう。
今日土曜、家内は長男の学校の学年懇親会があってニューオータニに出かける。
わたしは弁当を二食携え事務所に出て、朝は驚くべきことに自家製のサムゲタンを食べ、昼はこれまた驚くべきことに特製チャーシュー丼を食べた。
これで完全に風邪は癒えただろう。
夜は一人での夕飯となる。
若き頃の土曜と同じ。
たまにこういうのも悪くない。
おそらく夕飯は用意されているのだろうが、好きなものを買って帰り、家でくつろぎ映画でも見つつビールを飲もうと思う。
若い頃と異なって、孤独と無縁のひとり酒。
それが満喫できるのも家族あってこそのことである。