KORANIKATARU

子らに語る時々日記

食を抜きにして家庭は成立しない

外で焼肉でも食べようと長男を誘うが乗ってこない。

家で食べるというので近くのスーパーでおかずになりそうなものを見繕って帰宅した。

 

刺し身や唐揚げや天ぷらといった品々を皿に載せ箸を運んだのであったが、不味さ極まって物悲しい。

 

喉を通らないほどではないが、心が冷えて気分が沈む。

 

わたしにしても長男にしても美味しいものを食べるのが当たり前の日常になっている。

味もそっけもない模造品を口にしたようなものであるから殺伐とした気持ちになるのも致し方なかった。

 

ランボーは羊がもどしたものでも食べて命をつなぐことができる。

そんな話を思い出しスーパーの惣菜をわたしはビールで流し込んでいった。

サバイバルするランボーになりきっていたのでまるで極限状態に置かれたみたい、執念の火を噴くような形相となっていたに違いない。

 

長男の方は頂き物のレトルトカレーとサトウのごはんで胃袋を満たすことにしたようだった。

惣菜にはもはや目もくれずてきぱきひとりで支度し、あっと言う間にカレーをかき込んでいった。

高級レトルトであるからスーパーの棚に晒し置かれているおかずに比べればはるかに美味しいはずだった。

 

このように日曜夜の夕飯は父子向き合って別々のものを食べるという孤食となった。

もちろん会話も弾まない。

 

しかし、しけた食卓もこれでいったん終幕を迎える。

月曜の夜になれば家内が旅先から戻ってくる。

それに二男も南部から帰ってくる。

 

再び美味しい料理が食卓を彩り、二万語がそこに添えられることになる。

 

父子ともども食を通じて要の不在を痛感するここ数日となった。

スーパーの惣菜を家族でつつき合うなど終末論的光景であっておよそ人の暮らしのシーンとは言い難い。

 

料理の作り手があってこそ家庭が成り立つ。

我が家の陽気な食の要は、家庭そのものの要でもあったのだ。

 

そんなことを思いながら、明日の朝昼は何を食べたいか長男に聞いてみた。

学校の食堂で食べる。

彼はそう言った。

 

海の日だから明日は学校が休みである。

そう長男に伝えた瞬間、暗く沈んだ我が家リビングに光が戻った。

 

歓喜に貫かれたかのように勢いよく彼は立ち上がり、勝利の雄叫びあげ右の拳を何度も突き上げた。

 

明日は月曜、そう思い込んで消沈模様となっていた日曜夕刻。

その月曜が実は祝日であると明かされればこれほど嬉しい話はなく、しおれた心もたちまちにして息を吹き返す。

 

その姿をみて月曜祝日のありがたさをわたし自身もひしと感じることになった。

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Wayne Miller, Chicago 1954.