ジムを終えて夕飯。
暑いので当然のごとくカレーを求めCoCo壱番屋に入った。
昨日の寿司の名残もあって注文したのは海の幸カレー。
同じ時、ラインを通じ何か食べようと二男が家内を誘った。
ちょうど長男の夜食を作り終えたところだった。
肉を焼き終え沖縄から届いたマンゴーを冷やしサラダを作って準備万端。
家内は待ち合わせ場所であるガーデンズに向かった。
行き先は天がゆ。
これもまたどちらかと言えば海鮮系と言えなくもない。
昨晩の寿司の余波はここにも及んでいたのだった。
お腹いっぱい食べる愛しの二男の様子を思い浮かべる、そんな夜の一場面。
仕事仲間からのメールを読み返す。
誰それは自己中心的だ、との記載がある。
ジコチューという言葉が懐かしい。
大人になってからはほとんど聞かなくなった。
そもそもジコチューというのは子ども世界に属する極めて幼稚な概念なのではないだろうか。
よほどの特典でもない限り、いい歳してジコチューと付き合うことはないし、だから大人社会のなかジコチューの肩身は狭く生き長らえることは難しい。
ジコチューを大人言葉で言い換えれば損得最優先主義とでもなるだろうか。
損得は大事であるがそれが最前面に出ると、持ちつ持たれつという人間関係の調和が損なわれる。
堅固な人間関係においては未来スパンでの信頼関係が基礎にあり、だから長期に渡って調和が保たれる。
世代を超えることもあるほど強靭なつながりと言えるだろう。
付き合えること自体で心強く、喜んでもらうえることが嬉しく、だからひと肌でもふた肌でも脱ごうという気持ちになって、相手も同様。
確かにそう感じられる。
それが信頼関係であって、それでこそ人のつながり。
そこに目先の損得勘定の入り込む余地はない。
分けるキャンディーの数で常に目を光らせるような者が入ると、ゲームのルールが書き換わり、人間関係が採算の優劣競う対立構造という配置に様変わりしてしまう。
ある種の精神的な殴り合いのなか置かれるようなものであるから、息が詰まって居心地悪い。
やがて人が離れ、まさに文字通り自己以外には誰もいない究極のジコチューが完成することになる。
つまりジコチューはあらゆる善き人間関係から遠ざけられていく。
まさに人類の叡智。
だから、腹など立たないしそれを愚痴ったところで時間の無駄だろう。
そう返信した。
ジコチューにつける薬はない。
相手の得になるようにだけ捧げられることは心傷つき苦痛であるが、他の人間関係へと延焼しないよう気をつけて、損得のラリーをそのコートでは打ち合うしかないだろう。
キャンディー争奪のルールに文句をつけてもはじまらない。
そして損得のバランスが崩れたところでゲームセットとなって解放される。
どうせ相手も長期的な付き合いなど考えていない。
人生は短く、時間は貴重。
失うものが最小にとどまれば御の字だろう。