KORANIKATARU

子らに語る時々日記

倦怠の日々ほどつらいものはない

夏休みに入ると公園でラジオ体操が始まる。

今朝は家内がそのお世話役を担った。

 

少子化などどこか遠い異国の話のよう。

この公園だけで百人もの子どもたちが集まった。

 

ラジオ体操を通じて交流が生まれ家内は毎年ちょっとした人気者になる。

 

家事に地域ボランティアに事務所の手伝い。

ただでさえ忙しく、そこに学校関係の付き合いも入るので冷蔵庫に貼った家内のカレンダーは予定で埋め尽くされている。

 

そんななか最も心血注ぐのが料理。

特にこの夏は長男の食事の支度に全力投球しなければならない。

 

昨晩は野菜たっぷりチーズたっぷり具沢山なタコスが夕飯のメニューとなった。

ホットなチリソースが食欲そそってビールがうまい。

 

二男と向き合い夏の予定について話し合う。

 

この夏わたしはここに留まるが彼には東京見学を勧めてあった。

プールをはじめ設備充実のホテルを根城に、家内がする下見に付いて回って大学を幾つもその目で見ることは意義深いだろう。

 

そしていつしか話題は文理選択の話へと移行した。

 

わたしは理系に進んだ。

動機は単純。

理系の方が文系より優秀、そんな思い込みが背景にあって、だから数学が得意であって思慮欠けば迷う余地はなかった。

 

中学受験を経た算数偏重的な価値観の残滓がバイアスとなったといえるかもしれない。

算数の出来が賢さの指標となってそれが数学に置き換わり、それがアイデンティティの要素となっていく。

そうなると若気の視野にはその強みを最大限の恃みとする以外の戦略は考えられないということになる。

 

いまもその種の学校の底流には、賢ければ理系でそうでなければ文系といった表面的な見方が空気のように存在しているようである。

 

実際、上の息子が文系を選んだとき、あるママ友が驚いて言った。

えっなんで。

 

上の息子はカナダでの様々な出合いを通じ確信を得たようで、帰国してからは理系という選択肢は完璧に消え去った。

手応え感じる彼なりのロールモデルを見出せたことは喜ばしいことであり、その意味でもあの留学は価値あるものだったと言えるだろう。

 

わたしは下の息子に言う。

 

優秀な者もわんさか文系へと進むのだから、数学ができれば理系といった学校の雰囲気のようなものを全部のけてから考えよう。

 

数学が少々出来たとして、大きな世界ではそれがどうしたといった程度の取り柄でしかなく、その取り柄も所詮は原料のようなものであって、原料それ自体は何も生み出さない。

つまりあてにして将来支えになるようなものではないということであり、進路を選ぶ際の決め手にもならないということである。

 

わたしもかつては数学の能力が人間の賢さの指標になり得ると過大視していたが、それで世の中どうにかなるわけではなく、いまでは英語ができる者の方がはるかに偉いと宗旨変えしている。

 

どちらを選択するにせよ問うべきは、何に心から関心を持って、将来どんな日常を求めたいのか、ということだろう。

興味持てないことに取り組み、倦怠の日々を過ごすことほどつらいものはない。

 

政治や経済、法律、世界情勢に社会制度、そういったものの方に惹かれる何かを感じるのか、自然科学や科学技術、情報通信、医学といったものに引き寄せられる何かを感じるのか、じっくり心の動きを眺めてから決めた方がいい。

 

わたしは理系へと進み齟齬を覚えたまま卒業し、遠回りの末、文系畑に不時着した。

振り返って思うことは、せっかくの若い時代、関心持てることに全身全霊かけ打ち込める方が絶対にいいということである。

将来仕事に捧げる時間は10万時間にも及ぶだろう。

それが生き生きとしたものになるかどうかはそこにかかっているように思う。

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2018年7月21日午後10時 夜食のデザート フルーツかき氷