この日ラストの訪問先は巽北の事業所。
駅を降りしばらく歩く。
ギンギラの西陽に全身あぶられるかのよう。
このまま灼かれれば命危うい。
昨今の暑さは災害レベル、そう言っても大袈裟ではないだろう。
インターホンを押し2階に上がる。
事業主の部屋に通され度肝抜かれた。
闘犬2頭が激しく凄む。
檻を突き破らんばかりの勢いで吠えて威嚇してくるので、ただでさえ犬が怖いわたしは竦みあがるしかなかった。
事業主が犬を制してやや場が落ち着くが、重低音で唸ってこちらを注視したままなので依然として生きた心地はしない。
それでも書類屋。
気力振り絞って平静を装い、迫力満点の犬ですね、と事業主に話を向けた。
アメリカンピットブルテリア。
闘うことを目的に作り出された犬種であるそうだ。
危険犬として飼育が禁止される国もあるというから只の犬ではない。
そう言われれば見惚れるほど。
身体全体が筋肉だけで造形されていて、金剛力士像顔負けの肉体美を誇っている。
そして怖さがぶり返す。
檻がなければわたしはひとたまりもなかったはずだ。
臓腑を食い散らかされ変わり果てた姿で夏の異臭にまみれることになったかもしれない。
事業主の背後で時折唸り声を上げこちらを睨む二頭は、そんなことを平気でやらかす玉に見えた。
事業主さんとは初対面であったがひとしきり話すうち場がなごみ打ち解けて、二頭のピットブルも警戒心を解いてくれたのだろう、凶暴な表情が温和なものへと様変わりしていった。
挨拶を終えてその場を辞すときには、わたしも闘犬並みの働きができることを事業主は理解してくれたようだったし、二頭もわたしを仲間だと認識してくれたようだった。
時計を見ると5時を過ぎていた。
思った以上に話が長引いた。
遅刻は必至。
先に店に入るよう、家内にメールする。
が、全員が揃うまでは他の待ち客を優先させるというのがホルモン空のルールであった。
鶴橋駅に着き地上へと階段をあがっていく。
ああ、鶴橋。
太陽が燦々と輝く盛夏であってもガード下は薄暗く、焼肉屋から吐き出される煙が立ち込めてその暗さに何か思念でもあるかのような立体感を与えている。
まもなくホルモン空。
5時半の到着となった。
すでに列ができているから驚きである。
家内と二男は店先で立って待っていた。
合流し晴れてテーブルに案内してもらうことができた。
通常の焼肉屋でするのと同様、まずは赤身からどんどん焼いていく。
サイドディッシュとして頼んだイカフェ、生センマイ、キムチもうまい。
家内は終始上機嫌で、二男も楽しげ嬉しげに食べ続けている。
赤身からホルモンを経由し赤身に戻ってお腹膨れて大満足。
もちろん家内は長男に持ち帰るための肉を焼くのも忘れない。
二人にとって初のホルモン空。
御眼鏡に適ったようであった。
店を出る頃には、暑さ跳ね返すような力が全身に備わったように感じられた。
それもそのはず鶴橋こそ正真正銘のパワースポットと言えた。
ある種特異な辺境地帯といった鶴橋の装いであるが、激動の時代を生き抜く者に強力な滋養を供給し続ける地であったことも確かなことであった。
骨身削る土木作業や屑鉄収集に携わって糊口を凌ぐ独り身の腹を満たしそのサバイバルに貢献してきたのは鶴橋であったし、それら独り身が所帯を持ち家族を形成した後は、一家全員に対し力強く生きるための燃料を投じる役割を鶴橋が果たした。
闘犬さながらの無頼漢たちが奮闘し人としての暮らしを手にするまでの全過程をガード下の暗がりは見据えてきたと言えるだろう。
そんな話をしているうちガード下にあるアジヨシ本店が見えてきた。
焼肉を食べれば仕上げは当然に冷麺となる。
デザートのシャーベットみたいなものである。
わたしたちが冷麺3つを注文するその横で、どこかのおじいさんらがサムゲタン3つを注文していた。
そのおじいさん3人組にとってもやはり鶴橋はパワースポットであるに違いなかった。
言葉では語り尽くせぬあれやこれを経て味わう真夏のサムゲタンは格別の味だろう。
しかも老友とその味を分かち合えるのであれば尚更。
おじいさんら3人の人生模様を想像してみるが青二才であるわたしの頭には何も浮かばない。
視線の先はガード下。
その暗がりだけがすべてを知って、そして押し黙っていた。

