日曜日、茨木でフィールドホッケーの国際マッチが行われる。
観戦のため二男は友だちらと朝早くから出かけた。
試合は午後3時。
出発するには早すぎる。
実はその前に皆で映画を観る。
そして観戦後は連れ立ってラーメン。
旅の行程は企画者の趣向によって決まる。
映画とラーメン。
発案者が二男であることは疑いようがなかった。
そんな話を家内としながら家を後にし、二手に別れた。
家内は真面目。
根っからの長女気質と言うのだろうか、手を抜かないしさぼらない。
だから雨の日曜、生真面目にも課題に取り組むという。
わたしは長男をクルマで運んで事務所に向かった。
着くや否や会議テーブルに陣取って長男は作業に没入し始め、わたしはぽつんと一人取り残された。
積み重なった新聞をかいつまんで読み、ジムに出かけてカラダ動かしサウナで過ごし、来る日も来る日も似たようなマンネリ化した流れをなぞってたっぷり時間潰して、それでもまだ夕刻。
彼がガス欠になる様子は一向にない。
引き続いての時間つぶしは映画鑑賞。
ヘッドフォン使ってわたしは映画を観始めた。
『時間回廊の殺人』。
韓流映画の新作をまとめて手にとった中にあった一作だった。
ホラーだとは知らなかった。
ほぼ無作為に選んだせいで紛れ込んでしまったのだった。
製作者の狙いそのまま、わたしは随所で仰天し腰抜かし声をあげそうになった。
息子の邪魔にならぬよう、わたしは身を縮めながらその強烈な怖さにじっと耐え続けた。
が、ふと思う。
もしこれを一人で観れば、とてもではないがこの程度では済まない。
トイレにも行けやしないし、物音ひとつで悶絶してしまうような恐慌状態に陥っていたことだろう。
振り返ればそこに長男。
彼がそばにいるからこそ怖さを娯楽として楽しむ余裕があった。
息子がいるというだけで心強く、ホラーなど弾き返すほどに威力満点。
そしてそれは進行中の映画のなかでも同じことであった。
映画のなか主人公である母が牧師に向かって言い放つセリフが非常に印象深い。
姿を消した息子を探し出すため母は執念を燃やしている。
究極の恐怖に晒されることが分かっていても、母は気丈に立ち向かう。
息子を思えば怖いものなど何もない。
差し迫る危険を察知し止めようとする牧師を制して母は言う。
「母親にとって子どもは信仰と同じなんです」
つまりはそれこそが生きる理由ということなのだろう。
朝から晩まで長男と過ごし、帰宅は夜11時となった。
月曜はゆっくり目に出勤しようと朝寝坊を決め込むが、5時を過ぎて二男が起き出し、それに合わせて家内は朝食と弁当の支度を始めた。
結局わたしも起きることになる。
生きる理由が動けば、家内も動くしわたしも動く。
なるほど至極単純。
とても分かりやすいメカニズムのなかわたしたち夫婦は組み込まれている。
それが明白となった月曜朝の5時であった。