京都での業務を終え事務所を経由し天王寺方面へ向かった。
午後7時に仕事終了。
足はそのまま正宗屋に向いた。
カウンターに座っていつものメニューをなぞっていく。
左右両隣はひとり静かに飲む中年男性。
真後ろのテーブルで差し向かう中年女性の声が甲高く響く。
誰かが4万円の靴を買ったといった話をしている。
振り返るとスマホの画面をのぞきながらおばさん二人が眉を吊り上げている。
誰かのSNSの発信を目にし、それが癪に障って仕方ないのだろう。
その誰かを獲物にし二人で噛みつき合っている、そのような図に見えた。
おそらく二人は術中にはまっている。
発信者からすれば噛みつかれてこそ4万円で買った甲斐があるというものだろう。
モノが主題の世界では、自尊心のエネルギー争奪は、モノによって為される。
頭が高い。
4万円の靴が印籠となって庶民は動揺し、持ち主はこれで痛快。
そして、ひれ伏す民の内心は煮えたぎる。
後方から聞こえる怨嗟の声はエスカレートしていくばかり。
靴の次にはカバンが俎上に載せられた。
いまやSNSを使えば誰であれ、これまで叶えられなかったスター願望やセレブ願望を小さな画面のなかでは実現できる。
今日も明日も4万円の靴がアップされ、人心は右へ左へとかき乱される。
人の本質が透けて見え、遠くで見る分には害はない。
反面教師と捉えれば学ぶところさえあると言えるだろう。
が、もしこういった露出狂的なことを身近な身内がしていれば、笑って済ませられるようなことではない。
先日、下の息子がグランフロントの白雲台を訪れた。
きっかけは、何年も前に「ここはおいしい」とふと漏らしたわたしの言葉。
親が子に与える影響は思った以上に大きく、これは親ばかりではなく身内の大人すべてが強く影響及ぼすと考えて間違いない。
身近な大人は子らの手本となる。
手本とまではいかない場合でも、行動や在り方を探る際のサンプルとして見本にされる。
遠くの他人であれば異常値として破棄できる例であっても、身近であれば参照する標本になり得て、つまり、4万円の靴を買って見せびらかすのは普通のことだと思いかねない、ということである。
良き影響を与えてくれるなら大歓迎。
が、虚飾を声高にするような人については、たとえ身内であっても子に関わってほしくない、心からそう思う。
子に与えるもの、子が接するものについては最良のものをと親として心がけてきた。
だから、明白に百害あって一利なしである者が忍び寄ってくると、とても平静では見過ごせない。
聞くにつけあまりに愚かしく、わたしのまわりに一切見当たらないキワモノまがいであればなおさら。
感覚に大きな齟齬がある場合、最低限の礼節をもって接するに留め、交流はしない。
それが互いにとって賢明な距離感と言えるのではないだろうか。


