朝から晩まで上の息子と一緒に過ごす一日となった。
その間、映画『馬を放つ』を見た。
高くそびえる山々に囲まれた広大な地が舞台である。
キルギスはまだ近代化の途上。
そこには新旧いくつもの時間が流れている。
地に吹く風にさまざまな時が混ざって運ばれていく。
画像が捉える人の佇まいや街の息づかいからそう窺える。
主人公ケンタウロスには歳取ってから授かった息子があった。
その幼子はまだ言葉を発せないが父はあれやこれや話しかけ祖先についての神話を語る。
祖先は誇り高き騎馬民族。
その昔、馬は人の翼だった。
父は馬と人と翼をかたどったおもちゃを作り子に与える。
わたしの後ろでは長男が勉強している。
たまに数学を聞きに来る。
そのたび映画を一時停止にする。
わたしは理系。
そこそこ解けるがもはや息子の方が力は上である。
質問が終わるとわたしはまた映画世界に入っていく。
『馬を放つ』の主人公は小さな息子と過ごす時間、幸せだった。
子には難解なはずの神話も、いつか子の胸に宿って血肉となる。
そう確信できる喜びは計り知れない。
自分は何者かと問うとき、祖先が何者であったのか、何者であろうとしたのか、それを知ることは必須だろう。
自らのルーツを知ることは幸福の鍵とも言える。
人を満たすのは物質だけではない。
父から子へと伝承されるのは、馬を翼とする勇者。
その魂が子に引き継がれ、誇りと希望が時を超え脈打つことになる。
作業に没頭する長男がふいに立ち上がってそこらを歩き回る。
本棚の前で立ち止まり、幾つか手にとってはペラペラとページを繰る。
何冊かの洋書に興味を示し、いつか読むと彼は言った。
わたしには読み通せなかった本である。
難しくて断念したまま置いてあった。
英語力についてもすでに彼はわたしのはるか上を行っている。
だから彼なら鼻歌混じりで読めるだろう。
その図を想像すると、それらの本を彼のために買ったのだと思えてくる。
雑談が止むとわたしはまた映画に戻る。
かつて民族を束ねたキルギスの神話も近代化の影響を受けその神通力を失っていた。
カネがものをいう世界にあって主人公の馬への思いなど一顧だにされず、人々の共感を呼ぶことはなかった。
馬より金。
誇り高き勇者の友であったはずの馬はもはや金を生むための道具でしかなかった。
だから馬を尊び「馬を放す」主人公は孤立し謗られ居場所を失っていく。
ラストシーン。
父が銃弾に倒れた同じとき、息子は元気よく言葉を発した。
お父ちゃん。
決定的に大事な何かは子に確かに受け継がれた。
そうと分かって、観終えて涙が込みあがる。
そのときちょうど二男がやってきた。
散髪代をもらいに塾の帰りに立ち寄っただけであったが、うっすら浮かんだ涙の作用か、わたしにはそれがとても感動的なことのように思えた。
だから散髪代を奮発するのは当然のことだった。
夜になって流す音楽はジェットストリーム。
城達也のナレーションが懐かしい。
それを父子二人で聞いて夜を過ごすことのなんて饒舌なことだろう。
一日中置物のようになって一緒に過ごし退屈でも何でもない。
父であることはそれ自体幸せなことなのだ。