ダイヤに乱れが生じていた。
宝塚線の踏切確認のためだという。
予定より10分遅れで入ってきた電車はすし詰め。
わたしは乗るのを見送った。
予想したとおり、混み具合に偏りが生じていた。
次の電車は嘘のようにガラ空きだった。
おかげでゆうゆう腰掛け小さな旅路を満喫できた。
二駅目が北新地。
そこで降りまずはまっすぐレオニダスに向かった。
時節柄、陳列される品はハロウィンの装い。
が、家内は大人。
いつもどおり9個入りの定番ショコラアソートを選んだ。
時間に余裕あったはずが少し迷って、鮨亮に着いたときには6時半を過ぎていた。
田中院長はとっくに着いていて、カウンターの一番奥に陣取っていた。
隣に座ってビールで乾杯。
鮨亮の名人芸を目の当たりにする時間が始まった。
見事な手さばきで見ていて小気味いい。
会話のテンポと一体となるかのようにリズムよく料理が差し出され説明が加えられていく。
食材への思い入れが伝わってくる。
どれも手間暇かけた職人芸の粋の結晶と分かるので、賞味するのを一瞬躊躇うような気持ちになるが口に含めば忘我。
わたしは鮨亮の味に魅了され続けることになった。
そして、味覚が活性化されると会話が一層弾む。
色調含めた店の設えに工夫があって、開放的となって気分伸びやか、くつろいで過ごせる居住感が実にいい。
時の流れが緩やかに感じられてますます居心地よく、大将はそこそこの男前で女将はとびきりの美人。
大事な話をするのにお誂え向きの店と言えた。
田中院長も同意見。
次回、集まるならここにしようと話が決まった。
さてところで隣席の田中院長。
学識高く専門医として絶大な信頼を集める存在であることはこの日記で何度も繰り返し述べてきたが、そのトーク力が非凡な域にあり、人望集める人柄も比類ないものであるといった特筆すべきことについてはあまり触れてこなかった。
当たり前すぎることは気にも留められず見過ごされる。
この法則は世の全てにあてはまるのだろう。
が、たとえば視点を変えて異なるアプローチで物事を捉えたとき、その当たり前がくっきり浮かぶということがある。
たとえば田中内科クリニックの看護師。
田中院長の脇を固める彼女らはどの面々も愛想が良くて気立てがいい。
だから看護処置スペースは人情味あふれる場所となり、そこで過ごせば心が安らぎ、わたしなどそこで暮らしてもいいと思うほどである。
阿倍野天王寺と言えば、人情の町。
だから田中内科クリニックがそこに立地するのは極めて適切なことだと言えるだろう。
で、ようやくわたしは改めて気づくことになった。
類は友を呼ぶというのはクリニックにもあてはまる。
情け深い看護師の顔ぶれからたどって至る田中院長の実像は、人情家。
中学、高校と常に成績上位者に名を連ね医師としても優秀。
そんなイメージで田中院長を捉えるとその人間味が死角に入り、また、普段から接していると慣れてしまってそれをあえて意識することがなくなっていく。
おお、タコちゃん。
わたしは新鮮な思いで旧知の友人の横顔に目をやってビールのお代わりを注文した。