終業の場所が地元だったので事務所には戻らず帰宅した。
小腹が空いている旨伝えると、家内が手際よくサラダを作りミネストローネを温めてくれた。
丹波で買ったレタスが弾力あって美味しい。
食後、黒豆茶を飲み一番風呂に入る。
湯上がりなので室内着といった格好のまま。
家内が運転しクルマに乗って数分。
ガーデンズTOHOシネマズに到着した。
家内に誘われこの夜は映画鑑賞。
目当ては『ボヘミアン・ラプソディ』。
上の息子が小学4年、下が小学2年になった頃のこと。
芦屋ラグビーに通い始めた。
練習場へと送り届ける際、様々な曲を車内でかけるなか、彼らのフィーリングに最も合致したのがクイーンだった。
確かにクイーンを聴けば腹に力が入って、視界が明瞭になり、呼吸が小刻みになって、前傾姿勢となっていく。
曲に促されるまま戦闘態勢へとスイッチ入るのだから、聴き流すだけでできる効率的な準備体操とも言えた。
そして以後、場を変え、時を変え、例えば塾へと向かう車中など、事あるごとにクイーンが流れ、彼らの活気は積み増されることになった。
送迎役はもっぱら家内であったので、家内も道中クイーンを聴いて馴染んで、子らと一緒に励まされる時間を過ごした。
振り返ればたいへんなことばかり。
母子が共有するそれらタフでハードなシーンのバックにはいつもクイーンが流れていたことになる。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』もクイーンのサウンド同様。
力強さとスピード感に溢れている。
無名のバンドがクイーンとなって名を馳せ一気にスターダムを駆け上がっていく。
その過程で数々の名曲が生み出されていく。
生成されるサウンドにカラダが共鳴し座して観るだけで心震える。
名曲の出現は言わば奇跡の瞬間。
奇跡の一瞬を目の当たりにすると涙が出る。
人はそのように反応するのだと改めて知った。
だから各所で感涙避けられない。
一体何度目元に手をやることになっただろうか。
そして耳馴染んだ名曲たちが、それら映像を通じて再活性され、よりドラマチックでより意味深いものとなって、わたしたちのなか息を吹き返すことになる。
子らがこの映画を観れば、かつての車内、彼らなりの苦闘の時間を、そこにあったはずの安らぎをも含め思い出すことになるであろうし、その名曲の向こうに横たわる根深いドラマを知ることで、人がバトンを託すようにして紡ぐ大きな時間の流れの存在を感知することになるだろう。
ラストシーン。
天をも突き破るようなフレディ・マーキュリーの歌声がまっすぐ心に響いて、涙が自然と溢れ出す。
短い生涯を駆け抜けた天才パフォーマーは、いまもわたしたちの前途をその歌声によって明るく照らし、強く鼓舞する。
あらゆる人にとっての伴走者であるはずなので、フレディ・マーキュリー率いるクイーンがどれだけ偉大であったのかこの作品によって理解深まるはずである。
映画が終わって照明が灯る。
そこら中、泣き顔だらけであった。
当然、わたしも家内も。
一人で観るべき映画だと息子には伝えるつもりだ。