この日も明石で業務があった。
いつもより早めの時間にカレーピラフ弁当をかき込んだ。
端に添えられた丹波の半熟卵がトロトロで実に美味しい。
昼を前にJR神戸線のダイヤは大幅に乱れていたが運良く予定の時間に間に合い、無事仕事に全力投球することができた。
精根尽き果て快速電車のシートに身を沈め帰途についた。
家内からメールが入り事務所で待ち合わせることにした。
電話対応しながら歩き事務所の前に着いたとき、向こうから家内がやって来るのが見えた。
買物帰りなのだろう、紙袋をいくつも提げている。
その中、まん福ベーカリーの焼きそばパンに目が釘づけになるが、これは子らのおやつ、わたしにあたるはずもなかった。
お腹も空いてクタクタだったので近くの寿司屋に寄って帰ろうと家内に提案し店に電話した。
あいにく金曜夕刻、すでに満席だった。
食べるものなら用意してあると家内が言う。
気力振り絞って家に真っ直ぐ帰ることにした。
途中食材をスーパーで調達し帰宅ラッシュで混み合う電車に二人して揺られた。
家に帰ってわたしは食卓にへたり込み買ったばかりのワインをグラスに注いだ。
家内はテキパキと夕飯の支度をはじめ、今日焼いたばかりだというキッシュを温め直してくれた。
なかに入る丹波のほうれん草がとてもおいしい。
続いて鮭のムニエルカレーチーズ風味。
ガーリックソーセージがこんがり焼かれ、わたしは粒マスタードとビールを家内に所望した。
仕上げは生ハムサラダとチーズとクラッカー。
ここで再びワインに戻った。
食べて気力も回復し話す元気も戻ってきた。
幸福についての話になった。
幸福には一過性のものと尽きることなく湧き出るものの二種がある。
前者はヘドニア、後者はユーダイモニアと呼ばれる。
手軽だがうっかりすれば虚無と背中合わせの幸福と、努力欠かせないが充実感と永続性ある幸福、そのようにこの二つは対比できる。
前者を悪い方にこじらせた例として、あの遊んでばかりいるバッタセレブのおばさんなどが挙げられるかもしれない。
このご時世、嘘八百でさえ幸福感の源泉となってしまう。
元手がさほどかからないので嘘が嘘を呼び、気づけば全部が薄っぺらな嘘に塗り固められていく。
しかし所詮は吹けば飛ぶようなチャチな代物。
見る人が見れば一目でそうと分かるのに、見破られていることに本人は気づかず、称賛寄せられていると思い込む。
焚きつけてくるようなその自己顕示に周囲は不快を覚え、あるいはその必死さに憐憫を感じ、その一方、当の本人はインスタなどの虚飾の城でご満悦という奇怪な構図がそこに形成されることになる。
最後はどのような帰結を迎えるのだろうか。
結局、実るものは何もなく、披露してきたマジックも、見破られるより先に飽きられて、見るに堪えない幸福ショーが、寂しく先細りながら繰り返されていく。
寂れた演芸場に聞こえてくるのはまばらな拍手。
そんな光景が目に浮かぶ。
どうあれ、わたしはその肥大したエゴと勝ち気な自己主張に拒絶反応しか覚えない。
わたしたちは地味に静かに暮らしていこう。
家内と話し、いつもと同じ結論に至った。