和食に中華に韓国料理そしてイタリアン。
料理教室に通ったからと言って、家の食事が充実する訳ではない。
それらを習ったからというより、結局はある種の精神性といった話に帰着するのだろう。
素朴に言えば、子にお腹いっぱい食べさせたい、風邪引かないよう栄養あるものを摂らせたい、美味しいと喜ばせたい、といった話が根本に来る。
そこに手間とセンスが結び合わさり、料理という果実が食卓に載って家庭に灯がともるということになる。
だからそういった精神性自体が備わっておらず、手間もセンスも欠いていれば、家庭には寒風が吹きすさぶといったことになりかねない。
手間とセンスはなんとかなっても、精神性だけは教わってどうにかなるものではなく、その人の知性や見識、責任感や献身性といった人間味すべてを包摂する話であるから、付け焼き刃でどうにかなるはずもない。
だから取り繕って一時的にそんなポーズを決めてみせたところで続く訳がない。
そんなことを思いつつ、一層冷え込んだこの日、食卓に並んだ熱々の韓国料理を楽しんだ。
家には家内とわたしの二人だけ。
ハイボールを二人で飲みつつ、iPadを食卓に置いて『ボヘミアン・ラプソディ』のメイキングに見入った。
改めて振り返り、とても丹念に作り込まれた映画であると分かって、さりげない一シーン、一シーンがとてつもない光を放っていることに気付かされた。
なんて美しいシーンだったのだ、そんな風に随所で心が鷲掴みにされ、その度わたしたちは顔を見合わせた。
フレディ・マーキュリーの並外れた声域と声量にプルル震えて、子らの帰りを待つ。
こんな時間がただ過ぎ去るだけでは惜しく思え、日記に書けば永遠に残る、そんな気がするのでこうしてまたどうでもいいような日常の一コマを記すことになる。
いつか子らが読む。
トラとライオン、親はそう思って疑いもしない。
その帰りを待つ時間、親はこのように過ごしていた。
彼らにとって子ども時代の時間を完結させるに足るサイドストーリーとなるのではないだろうか。
何が価値であり、何を大事にしなければならないのか。
書く本人がいちばんの学びを得ながら一日一日を日記というアルバムに綴じ込んでいく。
家内がする食事づくりと同根の話だと思うが、どうだろうか。

