昨晩は年に一度の法事の日だった。
親戚連中と久々顔を合わせわいわい飲んで、家内と二人電車で帰宅した。
それほど飲んだつもりはなかったが、身体の声を素直に聞き入れ、朝はゆっくり目に起きることにした。
家内は朝食と弁当の支度ですでにキッチンで始動している。
まずはそこに二男が降りていった。
『ボヘミアン・ラプソディ』は高サウンド上映館で観るのが正しい。
だから西宮北口ではなく梅田のTOHOシネマズを選んだ。
朝食を摂りながら、二男が家内にそんな話をしている。
そしてやはり思ったとおり、階下のオーディオからクイーンの歌声が流れ始めた。
そのサウンドで長男が目を覚まして階下に降り、朝食を終えた二男と入れ替わって食卓についた。
クイーンが流れるなか、彼の寝癖を笑う家内の声が高らか響き、髪型について長男と家内がする会話が上に聞こえてくる。
長男が朝食を終えた頃、わたしがしんがり、階下に降りた。
三人同時なら楽なはずなのにと思いつつ、家内がよそう炊き込みご飯と熱々の味噌汁を口にした。
家内の立場になって考えてみる。
家に男が三人いて、このところほぼ全員がてんでバラバラに飯を食う。
手間はかかるがその反面、一人一人と向き合える。
そんな時間は食事の場面以外だとなかなかない。
そもそも忘れてならないのがその語数。
家内が発する言葉は一日に二万語を優に超え、ときに五万語に及ぶ。
それを思えば言葉の着地面積は広く大きい方が都合良く、男三人並列つなぎで同時に食事するより、直列つなぎで各自順々に食卓を訪れる方が理に適う。
良い料理は会話を深める。
寡黙な男であっても飯がうまければ、食って口を開くついでに言葉を発することになる。
人類が会話し始めたのは、おいしい料理を口にしたときだった。
会話誕生の起源についてそんな仮説を唱えてもあながち的外れではないだろう。
わたしたち男三人はよくできた料理によってついうっかりと口を割り、それで生じた会話を通じ、数万の言葉の受け手役になっているのだった。
家内は楽しい訳である。