乗り換えのため先を急ぐが、通路が狭いにも関わらず、真ん中をゆったりと年配の女性が歩いている。
道を塞がれる形になり後続するわたしと別の男性は、その背につかえて追い越せない。
通路がまもなく階段に差し掛かる。
そこで道幅が広がった。
その機会を逃さず捉え、わたしは女性の左、別の男性は右。
同時に階段へとジャンプし女性を追い越しその前に躍り出た。
まるでダンスの出だしのシーンのよう。
そのようにして始まった一日であった。
早朝から根を詰め快調に事務作業に勤しみ気づけば夕刻。
十二分に頑張ったので定時に引き上げることにした。
これから帰る。
そう家内にメールすると、牛乳と期間限定ハーゲンダッツのアイスを買ってくるよう頼まれた。
ただでさえこの日は荷物がかさんで重かった。
しかも雨まで降り出している。
明日にして。
そうわたしは返信した。
しかし駅を降り家が間近に迫ると気持ちに余裕が生まれた。
わたしはスーパーに寄って家内所望の品を買い求めた。
荷物に牛乳2本にアイス3つが加わって、腕が引き千切れそうになるのを渾身の力を振り絞って耐え抜いた。
まもなく家というところ。
家内の姿が見えた。
自転車に乗っていままさに出かけようとしている。
わたしは足を止め、息を潜めた。
見つかれば買物に連れて行かれる。
くたびれ果てていたので、わたしはそこで死んだふりを決め込んだ。
幸い家内の視線はこちらに向かず、わたしはまさにタッチの差で家でのくつろぎにありつけた。
最後の気力を奮い起こし、買って運んだ牛乳とハーゲンダッツのリッチミルクを冷蔵庫に収めて任務完了。
リビングにへたり込み、読まずに溜まった新聞紙面をめくっていると、ほどなく家内が戻ってきた。
買い物袋には果たして牛乳とハーゲンダッツ。
まるで賢者の贈り物。
子らを思う気持ちが夫婦で共通し生じた重複だった。
しかしどのみちこの重複分も子らが瞬く間に飲み干して食べ尽くす。
倍の量など我が家においては誤差のようなものでしかなかった。
サラダやセロリの炒めもの、それにブリのあらといったヘルシー料理で夕飯を済ませ、家内と映画を観る。
この日、ジュリア・ロバーツ主演の『ワンダー君は太陽』を借りてあった。
子が良き友を得るシーンが印象深い。
母であるジュリア・ロバーツは喜ぶが、わたしたちもいろいろなことを思い出し、その喜びを反芻した。
食べ物がカラダを作り、付き合う人間で人生が形作られていく。
だからこれまでを振り返るとあらゆることに感謝の念が湧いて出てきて止まらない。
食に恵まれ、何より幸いなことに人に恵まれた。
わたしたち夫婦もそうであり、子どもたちもそう。
ことほぐべきことであろう。
付き合う人間の影響は侮れない。
他者との関係の網目のなか、一個の人間が形成される。
取り上げる話題や言葉遣い、着る服、価値観世界観、趣味趣向、それに加えて人生に対する目線まで変わってしまいかねない。
たとえ相手が極端な人間であっても接する限りはひとつのサンプルとして機能して、多少なりその性質に感染することになる。
例えば飲みすぎても、飲ん兵衛の友だちがいれば自分の飲みっぷりなど可愛いものだと思えるし、例えば散財しても、浪費家の知人がいればそれに比べればまだましであると事態を過小評価することができる。
真面目な努力家が周囲にいればそれが普通なのだと自身を叱咤することになるだろうし、心根の良い人物がいれば自分もそうありたいとお手本にすることになる。
だから付き合う相手によって、知らず知らず低きに流れることがあり、その反対、高みに導かれるということも起こり得る。
子の付き合いをすべて管理しようなど愚かしい話であるが、それに目を配る程度の責任が親にはあるだろう。
そんな話を夫婦でしているうちストーリーは先へ先へと進んで、感涙のエンディングへと至っていた。