金曜夜、まっすぐ家に帰った。
朝よりも冷え込みの度が増し今が師走であるとの感も増した。
家で家内と二人。
いつもと同じ。
鶏肉入りのサラダ、かつお節たっぷりの豆腐、つぼ漬け入りの納豆。
夕飯は至って質素。
それとは対照的に家内はいつにも増して饒舌で、食事に彩りを添えた。
どういう流れだったか、家内の昔話になった。
大学を卒業し外資の企業で受付として働いた。
当時について楽しそうに家内は語るが業務はハードでハイレベルなものだった。
六甲ライナーに乗った時点でスイッチが入って受付の者となり、以後、振る舞い、言葉遣いからそのトーンまでぶれることなく一定以上の品質を保たねばならなかった。
朝6時には家を出た。
遠距離通勤であったが眠い目をこすって毎日通った。
それを平気でこなせたのは、体育会ゴルフ部で鍛えられたからだろう。
当時女子のゴルフ部といえば甲南女子と帝塚山の二強時代。
一見チャラチャラしたように見えて、切磋琢磨する分、その内実は厳しいものだった。
食事ひとつにしても鍛錬だった。
飛距離出すため食べねばならず課される分量は果てしなかった。
話を聞いていて思う。
無理して食べたその錬磨が、食が太いにもほどがある二人の大食漢を産むことに繋がったのだろう。
完食しなければならず一般客のキャディーもこなさなければならなかった。
その後でようやくラウンドが許された。
関西一円あちこちのゴルフ場を巡った。
そう聞いて思う。
副産物として運転が上手くなり、それが息子らの送迎に活かされた。
家内の饒舌は続く。
プール学院と言えば当時大阪女子の最難関の学校であった。
友人らと制服を着て難波を歩けば、あっプールだねと声をかけられるほどの名門だった。
今では遠い昔の話である。
選ばれてアメリカに留学した。
それがきっかけで英文科に進み、英語を使う機会の多い受付業務にも役だった。
聞いていて思う。
子らは英語が得意。
そのレベルは半端ない。
どこをどう探してもその原因はわたしにはなく、誰がどう考えても源流は家内ということにしかならない。
20代後半、通勤の負担少ない梅田の会社の受付として働くことになった。
そのとき将来ヤン坊とマー坊を授かることになるなど想像さえしなかった。
受付当時のエピソードから結構モテていたのだと分かる。
20代は家内の最強美人時代と言えた。
その灯に群がった一人がわたしであった。
ヤン坊マー坊を授かった原因の一端はわたしにもあるということになる。
そうして二人を育てていまに至る。
振り返れば全てのことに原因が見つかってああなるほどと合点がいく。
結婚して以降、家内の労は並大抵ではなかったはずだが、一生懸命な精神は継続し、だからこそ今がある。
絶えず継続する家内の一生懸命が、今現在の家族皆の一生懸命に繋がっている。
そう断言して間違いないだろう。
家内の話は尽きない。
が、午後8時直前、インターフォンが鳴った。
今夜は地元町内会の会議の日であった。
隣家の奥さんとともにボランティアを務める家内は自治会館へと向かい、家はしんと静まり返った。
わたしは一人静かに感慨にふけった。
持てる全てが過去と現在を問わず子らに注がれ、そのおかげサル同然がヒトになった。
最強母時代は目下絶賛継続中と言えた。