駅の要所に教職員が立ち、いつもわたしが出入りする裏門は固く閉ざされ、表から入る際には父兄用の名札の提示を求められた。
先ごろのSNSの件があって、いつもと様相異なる西大和であった。
昨年は師走の27日、今年は26日が懇談の日となった。
家内は地元夜警団の任に着かねばならず、昨年と異なりわたし一人での出席となった。
学校を訪れこれまで数々の面談を重ねてきた。
すべての場面が忘れ難く、そこで発せられた心こもった言葉を思い出すたび感謝の念が湧いて出る。
面談の際、まずは子を抜きにして話をし、続いて子を招き入れて話をする。
先生からすれば手間のかかるプロセスだと思うが、場の醸成という意味で欠かせない。
まずは大人同士で話をし地ならしし、それができて後、子を話に混ぜる。
教え導くという点で非常に理に適ったやり方だと言えるだろう。
ピッカピカのその地頭を信じ切ること。
この日息子に向けられた言葉にわたしはじんと来た。
中1の頃からの長い付き合い。
そんな先生からの言葉であるから心の真芯に真っ直ぐ届く。
わたしも一度は言われてみたい。
男前だね、優しいね、面白いね、いい人だね、世に褒め言葉は数あれど、地頭ピッカピカに勝るものはないだろう。
面談での言葉を嚙み締めるようにして言葉少な、わたしたちは学校を後にした。
バスに乗りそして電車に乗るが、一体何があったのか、天王寺を過ぎた後、車内はあり得ないほどの混み具合となって駅に停車するたび更に大勢がカラダをねじ込み乗車してくるのでその圧迫の度に恐怖を覚えるほどであった。
身動きとれずだから途中で降りることなど叶わぬ話で、大阪駅で群衆とともに吐き出されるときを待つほかなかった。
ようやく大阪駅に着き、車外へと押し出されるが、ホームも人が溢れ、激流に翻弄されるかのように右へ左へと弾かれながら、流れが減衰したところで、やっとのことカラダの自由を取り戻すことができた。
自由を得れば、次は飯。
何を食べよう。
息子と二人、そこらをぶらり歩いて地下に入った。
まるで連れ同士。
キョロキョロあたりを見回し仲睦まじく、賑わう地下の飲み屋街をグルグル回るが、適当な店がなかなか見つからない。
歩きつつ、息子が言った。
地頭ピッカピカについてはあの学校であるから誰もがそう。
例えば文系クラス一つとっても、直近の京大実戦で1位から5位を西大和が占めたし、東大オープンでは、東大クラスの一クラスだけで、7位を筆頭に10人が全国100位以内に入った。
友だちが凄い、ということは喜ぶべきことである。
なぜなら味方。
なんと心強いことだろう。
結局、地下で店を探すのは諦め地上に出た。
向こうに見えるのはお初天神。
あのあたりに行けば何かあるだろう。
引き続き、男二人の連れ同士、夜の梅田の繁華街を行く。
わたしは寿司が良かったが、息子のチョイスに任せた。
行き着いたのが、大衆焼肉の大松。
カウンターに並んで腰掛けた。
なるほど大衆。
鶴橋上六に軒を連ねるメインストリートの店に比べて半値ほど。
軒並み迎え撃つかのごとく目につく品を立て続け頼んだ。
わたしはビールで息子は白飯。
ご飯大盛り2杯目、ハイボールの大ジョッキ2杯目から会話中心の食事になった。
それまでは、食べて食べて食べて喋って、ここからは、食べて喋って喋って食べて、というリズムに変わった。
スナップチャットでいまもゲルフの友人らとの交流が続いている。
そんな話になった。
3ヶ月あまりの滞在であったが真冬激寒のなか、ラグビーを通じて友だちが何人もできた。
その交流がSNSを通じいまも続いている。
いつか再会が果たせる。
その時を互い待つ友だちが遠くにあることはそれだけで豊かなことである。
いま同じ学校で学ぶ同級生らも確かな力を蓄えてやがて世界へと羽ばたくことになる。
巨大で強靭な人の輪が躍動する様が目に浮かんで、心が躍る。
息子が得たことのなか、最大のものがその人の輪と言っていいだろう。
散々食べてお腹も膨れ、帰途についた。
大阪駅から電車に乗って並んで座った。
ぽつりぽつりと息子が話し、わたしは静かに頷く。
頷きつつ、小さかった頃の息子の姿を思い出し、ひとり感慨にふける。
わたしにとってピッカピカの一場面が、真冬の闇夜を暖か照らし西へ西へと運ばれていった。