明日は日曜だから学校は休みである。
そう言うと、元旦を除き年末年始も学校があるという。
わたしは感心させられた。
わずか数日であっても、群れる場が維持されることは案外大事なことに違いない。
一種の近親憎悪か、群れという語がネガティブな含意で用いられる場面を多々見かけるが、ケチをつけたところで群れの必須は揺らがない。
自営業であるからこそ、なおさらその重要を思い知らされてきた。
群れを見下し一匹狼を気取ったのは、駆け出しの頃だけである。
自身が属す群れがなければ、うちはたちまち干上がりぺんぺん草も生えないと今は心得るに至っている。
だから、子らに対し群れがどれだけ大事なものであるのか、謙虚な思いで声高にすることになる。
年末年始という特異な時期に学校で過ごせることは、ありがたい話である。
そこには先生がいて、友だちがいる。
引き続き、平常心が保たれ安心感が得られる。
何を何時間やるかといった話よりも、そこに場があり迎えてもらえるということが何にも増して意味深い。
たとえ数日であっても孤絶した状況に置かれるより精神的にはるかにいい。
そして、労苦分かち合った群れは各自強くなって、その凝集度も増していく。
今夜、大阪星光33期冬会が行われる。
一年の締め括りにあたって、わたしは友人らに心から感謝の気持ちを伝えたい。
皆がいてこそ、わたしがある。
嘘偽りなくそう思う。
いまや地縁は風化し、血縁さえ形骸化しかねない時代となった。
核家族という世帯の断片が、関わり薄く無機的に点在するのが社会の実態となりつつある。
それが多くの実感だろう。
核家族化で手が空いたから。
教育ママ増大の原因についてそんな説明を目にするが、実は、地縁血縁の希薄化が根底にあるのではないだろうか。
地縁血縁があてにならないのであれば、頼りになるのは、別途存在する「群れ」ということになる。
我が子を良き「群れ」に接続させたい、そのような本能的な切迫が、ママを教育に駆り立てている。
そう見るのが正しいように思える。
生きるに欠かせない「群れ」は、まず最初に学校で組成される。
作ろうとして生成できるものではなく、そうしたところで、それらしいような紛い物が出来上がるだけのこと。
秘伝の隠し味のごとく、仕上がるのに時間がかかり、そこでしか生まれない。
偏差値や進学実績も大事であろうが、学校選びにおいては、どのような「群れ」が生成されるのかという観点も不可欠ではないだろうか。