クルマだと渋滞に巻き込まれかねない。
だから姫路へは電車を使うことにした。
美味しい牡蠣を食べよう。
昨年末、夫婦でそう話し合っていた。
が、あれやこれや忙しくて延ばし延ばしとなり、結局実現は年をまたいだこの日に至った。
どこで食べようか。
新快速に並んで座り各自ネットで調べる。
室津産の新鮮な牡蠣が食べられる。
それが決め手となって貝屋マルホウを選ぶことにした。
姫路駅界隈は賑わっていた。
ちょうど昼時、どの店にも行列ができていた。
少々並ぶのは覚悟の上であったが、幸いカウンターに空きがあった。
ビールで新年を祝って乾杯するが、かれこれ今年に入って都合三回目。
三ヶ日すべて家内と二人でお酒を飲んでいることになる。
とりあえずのビールを済ませ続いてはスパークリングを頼んだ。
そしてまた乾杯。
これで四回目。
料理の注文は家内の管轄。
その侵害は許されない。
家内にしては珍しく豪快。
メニューに載る牡蠣料理のあらかたをオーダーしていった。
人気店であるようで店は満杯。
しかし、それに応える料理人は一人しかおらず、そのおかげ。
まるでコース料理を頼んだみたいに、ゆっくりゆっくり一皿ずつ運ばれてきた。
わたしたちにとってはちょうどいいペースであり、牡蠣をじっくり時間かけ堪能することができた。
大満足の食事を終え、姫路城に足を向けた。
胸すくような青が空一面に広がり、ほろ酔い気分と相まって至福。
だからときおり吹く冷たい風さえ心地よく感じられた。
まもなく眼前に姫路城が見えてきた。
間近に拝んでその威容に息を呑む。
裾野から広く高く積み上がった石垣が巨大かつ重厚で、そのうえに君臨する天守閣がまばゆい光沢を帯び、人の世にある位の高低を天下に知らしめているように見えた。
わたしたちは二人並んで、威風堂々としたその姿を惚けたように見上げ、しばし見惚れた。
日本初の世界文化遺産という口上に、文句のつけようがなかった。
天守閣入り口は長蛇の列。
それで周辺を歩くことにした。
新春の柔らかな光にあふれる庭園を歩き、中濠の水がせせらぐ小径を二人で歩いた。
一万歩ほど歩いたところでほどよい時刻。
外出すれば夫婦のお決まり。
子らの食材を調達しつつ引き上げることにした。
駅構内の杵屋でバームクーヘンと和菓子、八重垣で父に贈る日本酒、ヤマサ蒲鉾でほたて揚げとイカオードブル、ハトヤで名物えきそばのセットとたこ飯を買った。
そして忘れてならないのが、姫路玉子焼き。
ふたりで一人前を味見して、三人前を持ち帰ることにした。
仕上げは、駅のホームの立ち食い蕎麦。
名物だと聞けば無視する訳にはいかず、一杯のえきそばを二人で分けた。
家に戻っても満腹で、食事することなく結局、昨晩同様『フジコ・ヘミングの時間』を観始めた。
ドキュメンタリーといった趣きであるから筋を追うというより、奏でられる音楽や映し出される世界各地の街の風情について夫婦で会話しながらの映画鑑賞となった。
トルコ行進曲が流れたとき、家内がピアノの発表会でそれを演奏したという話になり、そう言えばうちの妹のピアノもかなりの腕前であったことを思い出した。
ピアノの修練を積むと筋の通った規律のようなものが内に備わるのかもしれない、ふとそんなことを思った。
映画においてフジコ・ヘミングの半生が語られる。
ここに至るまでの道のりは逆境に次ぐ逆境というものであり、長く続いた不遇が終わるのは60歳も後半になってからのことであった。
そうと知れば、クラシック音楽に不案内なわたしでもその音の一つ一つにかなり注意が向いていく。
ラ・カンパネラについて彼女が語るシーンが印象深い。
この曲は、演奏する者の内面、心の在り様といったものを、あらわにする。
そう言うとおり、ラ・カンパネラを弾く彼女の演奏は見事なものであった。
特殊な才を持つ者だけが、ピアノを媒介とし人の内の奥深くに潜む美を表出させることができる。
フジコ・ヘミングという存在を通じてこそ出現する美があるのだと、まざまざと感じさせられた。
そしてその演奏の卓越だけでなく、80歳を過ぎてなお意欲的に世界を駆け回る姿にわたしは深い感銘を覚えた。
1日に4時間の練習を自らに課し欠かさず、多く聴衆詰めかける緊迫の場に身を投じ続けることは並大抵のことではない。
コンサートの舞台でろくでもない使い古しのピアノがあてがわれることがあり、はるか歳下の指揮者にNGを出されることもある。
そんな状況に置かれても彼女は彼女自身のベストパフォーマンスを発揮して、演奏をやり抜く。
フジコ・ヘミングの日々を支えているのは、彼女自身の内に確固として根づいた誇りなのだろう。
映画を観ていてそう思った。
幼い頃から自らを鍛えピアノの腕を磨き続けた。
何があっても挫けなかった。
父は家族を捨てたのかもしれないが彼女にとって誇るべき存在であり、苦難のなか二人の子どもを育て上げた母もまた誇るべき存在と言えた。
そしていつかまたその父や母と会える。
彼女はそう固く信じている。
数々の苦境をくぐり抜け、いま夢があり希望があり、言い換えれば信仰がある。
だからピアニストとして彼女は衰えることがなく、16歳の少女の心のまま第一線で活躍し続けることができる。
見終えて、家内と意見が一致した。
わたしたちもしっかり頑張っていこう。
正月休みが終わろうとしている今の時期、素晴らしい演奏のみならず内面に確かな火を灯してくれる良き映画だと言えるだろう。