忙しければ忙しいほど、後に残る記憶は僅かなものとなる。
ああ終わったという感覚だけが残り、しかし、一体何が終わったのかについての認識は覚束ない。
手応えのようなものは多少あっても、入口から入ってすぐ出口といった呆気なさの方をより強く感じる。
この一週間は西へ東へと奔走した。
振り返って思い浮かぶのは、数コマ程度の断片的なシーンばかり。
線路は続くよどこまでも。
そういった感じで時間は連続しているはずなのに、飛び飛びで前後不明の記憶が点在しているだけであるから、追想しようにもぽっかり空白があるだけで言葉がつながらない。
一種の失語状態に置かれるようなものである。
緩やかであれば、列車が枕木を渡って響くような振動を時間のなかに感じることができる。
だから過ぎる時間を直に体で感じることでき記憶は雲散霧消することなく体内に静か着々降り積もっていくことになる。
ああゆっくりしたい、という思いは楽をしたいからというよりも、時間をしっかり噛み締め味わって過ごしたいという願望に端を発するものなのだろう。
忘我であれば、ないも同然。
こんな虚しいことはない。
そろそろゆっくり。
そうは思うが目を上げれば来週もすべて予定で埋め尽くされている。
では再来週は。
それも同じこと。
このようにずるずる引き延ばしているうち機会を失い、緩やかさは手の届かない憧れのまま、気づいたときには永遠の忘我に招き入れられるということになるのかもしれない。