朝、大ぶりの雪片がわんさと舞い、起き抜けから視覚がしゃきっと活気づいた。
雪降る二号線を東に向いて走り、三連休最終日も長男と過ごす。
思えば小4に差し掛かろうという頃のこと。
サルも同然というほどに動き活発ではあったが、果たして勉強ができるのかどうは定かではなかった。
物は試し、あわよくばといった程度の気持ちで塾に入れたが、案外、意欲があってサルに毛が生えた程度には頭も働いた。
以来、わたしの机の袖で勉強するという場面が増えていった。
月日積み重なり、その光景はちょっとした長編ものくらいの尺に至った。
小中高と様々学ぶプロセスが、振り返れば順々に想起され思えば遠くに来たもんだ、と感傷的になること避けられない。
子が真横で勉強に取り組む、そんな一場面に接するだけでもそこはかとない幸せを感じるのに、そんなシーンが分厚く長く10年にも及んで繋がるのであるから、それだけで父としての幸福を享受しきったと満足して然るべき話だろう。
もちろん長男だけでなくそこに二男の姿もあった。
半拍遅れて輪唱に加わったみたいに途中から二男も入って男3人、間近で机に向かう各自の姿を目に収めてきた。
そして、子が力をつけ、わたしは老いた。
年を追うごとみるみる力関係は変貌し、優勢を保てたのははるか昔のこと、いまではすべてに渡って歯が立たない。
実際、この3日間を通じてもそう。
空間ベクトルと微積分の問題でほんの少し長男のお役に立てた程度に過ぎず、微力ながら、というのさえおこがましくて憚られる。
一方の二男は不在であったが、こまめに連絡入りそこから察するところ、彼も彼なり充実の時間を過ごしていると分かる。
雪の降ったこの祝日は部活の試合があって朝早くに出かけ、そのあとは例のごとく仲間を引率しパゴダ白雲コリアタウン本店を訪れるという。
相変わらずチョイスが渋い。
若年にしては食通の部類に入るといっていいだろう。
昨晩は映画青年らしく一人で『ナチス第三の男』を観てきたというから一人で過ごす大人びた部分と、仲間を引き連れる兄貴分的気質が相まって、なにかこう男前な感じで、チャンカワイの言い方を借りるならば、惚れてまうやろ、というようなものである。
この三連休、わたしは机に座って映画を観る以外何もせず過ごした。
が、退屈することは全くなくしみじみとしたものを噛み締めそれを存分に味わえたように思う。
旅行や食事など楽しく美味しい場面もいいが、子の頑張りや充実を間近で静かに感じることは、それらにも増して更にいい。