我ら下々の民、浮かれたような暮らしからはほど遠く必死のパッチに生きる他なく、そのため必須の装備を挙げるなら一に体力、二に度胸、三四に来るとすれば読み書きで最後に愛嬌もあれば尚良し、といったところであろうか。
今回長男の受験において制限時間内に課題文を読み解き1,000字書き抜くという論述問題に接し後に続く二男においても早めの対策を講じるのが得策と痛感した。
もとより読めて書けて歌って踊れる息子らであるが試験という場で安定的に力を発揮するには、不断の修練が必要でそれら各種修練の連鎖があってはじめてどんと来いという状態に到れるに違いない。
だから昨晩二男と飯を食いつつ対策について思うところを語った。
ここは基本に立ち返り、愚直にも思えるが取り上げるべき素材は新聞をおいて他にない。
もちろん記事全部に目を通すなど負担が重すぎるし面白くともなんともないので続かない。
例えばコラムにだけ焦点を絞るというのはどうだろうか。
家でとっている朝日新聞のコラム群など秀逸で他紙と比較し一頭地を抜いている。
手抜きなく周到念入りに書かれていると感じるものが多いから読んで損することはない。
毎朝、紙面からコラムだけを抜き取りカバンに潜ませる。
空いた時間が5分でもあれば目を通す。
しかし漫然と読んでも催眠効果があるだけなので意味がない。
一言でいうとどうなるのか。
そんな問いをサーチライトにして文章に肉薄すれば本質が数々浮かびあがって読後に実が残る。
コラム読解という基礎練習を続ければ、時事が分かって、かつそこで発せられる意見や主張、繰り広げられる表現の数々がコレクションするみたいに頭に貯蔵されていく。
その蓄積のなか濾過され得られる濾物がやがて思考の芯となり言語表現の型となる。
そうなれば免許皆伝。
融通無碍に書けるという段階に至るはずである。
頭が空っぽだと大人になっても手は一切動かない。
小文でいいから読んで読んで読みまくる。
かつて西川きよしが言ったとおり。
小さなことからコツコツと。
明日からでも始めようではないか。