事務所に寄った家内と買い物を済ませ帰宅する。
この日も引き続き卒業式の話題が夫婦の会話を占めた。
数々のスピーチの場面を家内が余さず撮影していて、それをiPadで眺めつつ揚げ出し豆腐やきゅうりとわかめの酢の物といったヘルシー料理に箸をつけていく。
教室でする担任の先生の話の場面で、わたしの食事する手は止まった。
溢れ出す熱量に感化され話に引き込まれ、わたしもその一隅に腰掛けているような気持ちになった。
食事している場合ではなかった。
襟を正してその一言一句に聞き入った。
遡ること6年前。
そこに座る生徒らは皆、中1になったばかりのちびっ子だった。
その頃、彼らに語って聞かせたのと同じ話を先生は噛んで含めるように再び語った。
もはやそこで聞く者らはちびっ子ではなくいっぱしの青年となり、いまこの場を巣立とうとしていた。
一位になること、一番いい学校を目指すこと、そんなことは本当に大事な目標にはならない。
一位というのは、誰かと比較しての上下差の行き着いた結果であって、それはどこまで突き詰めても相対的なものでしかない。
そこには比較と差異があるだけである。
つまりは話の枝葉であって、そこに本質が宿ることはない。
だから一位ではなく、君たちには一流であろうとの思いを心に秘めてもらいたい。
少し言葉を置き換えるだけでガラリと変わる。
一流であるためには、他者との比較や差異よりもまず先に中身が肝心で自身が何を体現できるのか、それこそが問われると分かるだろう。
中身あってこその価値であり、価値は唯一無二であって絶対的でそこに順位のしゃしゃり出る幕はない。
だから誰がどうであろうが誰が何を言おうが一流であることをこれからの目標にしてほしい。
そんな話を聞いてわたし自身も初心に返るような気持ちになった。
ここ最近、易きに流れ楽に甘んじ恬として恥じない中年に身をやつしてしまっているが、思い起こせば、かつては怪物的と自画自賛できるほど仕事に没頭した一種の求道者であった。
当時は心に秘めた志しが確かにあって、それがいま失われてしまった。
まだ中年なのにそうであっていいはずがない。
先生の話でわたしは自身の致命的な欠落に気づくことができ、一気に初心に引き戻された。
大人が頑張ってこそ、子らの未来も明るく拓く。
まだまだこれから。
西大和の先生に、そう学んだ卒業式であった。