春晴天の日の午後、出先で業務に携わった。
つつがなく終わることが大半であるが、まれに険悪な事態が生じることがある。
事業所で起こったそのポテンヒットについては、危機管理として未然に防げるよう策を講じてあったが、センターとセカンドが互いに譲り合ったのか、相手任せにしてしまったのか、凡フライは捕球されることなく白球はグランドに落ち転がった。
ここはまず先にセンターとセカンドに対し原因究明と再発防止のための注意喚起が行われるべきであるのだが、この日は、春の異変、場外にあるはずのわたしに矛先が向いた。
もちろんわたしも子どもではないから過失割合としての責任がゼロではないと心得ている。
だから感情的に難じられ詰められても言い訳はしないし、センターやセカンドに責任をなすりつけるようなこともしない。
そんなことをすれば感情的になった相手の火の元に油を注ぐだけであるし、センターやセカンドの立場を悪くしてしまうだけであって後味が悪い。
わたしの役割の範囲で責任を素直に認め謝罪し、火勢が収まった段階でやっとはじめて今後の方策について説明を行う。
ここで大事なのが反論するみたいになると火がぶり返すので神妙な面持ちを保持堅持することである。
冷静になって時系列を追って全体を見渡せば、誰が何を取り違え勘違いしていたのか自ずと明瞭になっていく。
すでに冷静であるから、わたしに非があったかのような一瞬前の感情的な指弾がとんだ見当違いの言いがかりであったのだと誰にでも分かる形でくっきり浮き彫りとなって、上げられたまま取り扱いを留保されていた拳は行き場を失い、手の施しようのない気まずい燃えカスだけがそこらをあてどなくさまよった。
それで事は解決であったのだが、わたしも人間。
感情に残ったすすのようなものは簡単に消えず、もやもやとした何かがしばらく残存し続けた。
若い頃ならこんな状態で家に帰って家内に愚痴のひとつでもこぼしたのであろう。
が、そんなことをしても尾を引いて負の要素が増幅されるだけであり何の解決にもならず誰の得にもならず、肝心の家内を心配させるだけであり不毛であると長じて学んだ。
だから今では一切、家で愚痴などこぼさないし、弱音も吐かない。
愚痴や弱音は、家でなすべき男子の役割の対極に属するものであり、それを許すと救いどころか災いがもたらされる。
いいことなど何もないから、息子らにもそう心得えておくようこれを機会に伝えておこうと思う。
業務を終え、わたしはさっさと着替えてジムに向かい、YouTubeでK-POPを流しながら歌って踊るように一時間強走った。
それで邪心はすっかり焼却されてすっきり爽快。
気分一新されたところで、家内との待ち合わせ場所に向かった。
この夜は焼肉やっちゃん。
ビールを飲んでハイボールを飲んで、ほんの少し肩を寄せ家内が焼いてくれる肉をゆっくり味わいたっぷり食べた。
すべて順調。
気を揉むことは何もなく一点のくもりもない。
家内の二万語に聞き入り、酔いも手伝って気分は時を追うごとますます晴れ渡っていった。
何か意気消沈するようなことがあったとき、自力で復活するための儀式のようなものが誰であれ欠かせない。