卒業旅行第一弾の行き先は、しまなみ海道。
友だちと連れ立って長男は留守で二男も例のごとく留守。
金曜夜の食卓を家内と囲んだ。
前菜のサラダに続いてふっくらジューシーな手作り餃子。
ビールとよく合う。
Netflixで流す映像は『ウォレス&グルミット野菜畑で大ピンチ』。
その昔、家内が息子二人と観た映画である。
2006年公開であるから当時子どもたちは二人ともが園児であった。
映像に導かれわたしたち夫婦は二人して過去に回帰し、往時を懐かしんだ。
子らが小さかった頃、わたしの懐は今に輪をかけて貧弱で、だから見せるコンテンツは限られていた。
アマゾンなどで「機関車トーマス」や「ウォレス&グルミット」のビデオを幾つか買ったがそれが英語版だったのは、単に安かったからだったと思う。
食事ができる間の待ち時間など、子らは飽きもせず繰り返しそれらを見て過ごした。
長じて二人揃っていま英語を得意とする。
これはひとえに当時のビデオの反復視聴がスピードラーニング的な効果を生んだからではないか。
そう家内と意見が一致し、ナレーションの英語に聞き入った。
もしその頃にNetflixがあってそれぞれにiPadを持たせていたら、もっと英語が上達しただろうか。
そんな話となって、それだと絶対バカになる、とこれまた家内と即座、意見が一致した。
数限られたものを何度もリピートしたから力として収束したのであって、際限なく目移りし放題で接すれば取り込まれたものは発散するばかりで何も根付かなかったに違いない。
だから、クルマのなかで聞かせた日本の名作の朗読も、レパートリーが限られていたからこそ反復効果で結実するものがあったのだろう。
彼らがラグビーを始める前のこと。
ポッドキャストで日本の古典作品の朗読を集めてはクルマで聞かせた。
芥川龍之介や太宰治や宮沢賢治や小泉八雲の作品にちびっ子ながら聞き耳を立て、食い入るように聞き入って、そして何度も聞きたがり、結果、所々は諳んじられるほどまで彼らの耳に馴染んでいった。
わたしの懐が寂しいことによる止むに止まれぬ地味で質素な娯楽であったが、もしかしたらそれら朗読が彼らの国語力を養うのに一役買ってくれたのかもしれず、そう思えば怪我の功名ならぬ貧乏からぼた餅といった話であり、あの時代はあの時代で良かったではないか、と家内と意見が一致した。