リビングの大画面に幼い頃の息子たちの姿が映し出された。
家内がカメラ屋に持ち込んで、棚の奥で眠っていたビデオ類がまるごと全部DVDとして生まれ変わり、子らの昔が身近になった。
この日も夕飯はいたってヘルシー。
イワシと豆腐のハンバーグにめかぶの和え物、そしてチーズのたっぷり入ったサラダ。
それらをつみまに前夜同様久保田を備前の酒器に注いで口を潤し、家内とともにちびっ子当時の子らとの再会を楽しんだ。
プール教室では捨て身で飛び込み、パンチとキックでアバレンジャーを劣勢に追い込み、公園では鳩を追いかけ回し震え上がらせ、虫と見れば何にでも手を伸ばす。
終始、走ってよじ登って大きな声を出しはしゃぎまわって、それが二人。
その面倒をみる家内の労苦は並大抵のものではないはずだが、画面を通じ漏れ聞こえてくる家内の声はルンルンと弾んで、子らの勢いと同様、高らかであった。
それら宝の山は数十枚をくだらず、はちきれんばかりのネバーエンディングな分量と言えた。
子らが巣立った後、夫婦の余生を彩るのに十分。
何度も繰り返し、連日連夜、それら映像に釘付けとなって、かつての小さな小さな生き甲斐がいまのささやかな生き甲斐と共鳴するような、それこそ夫婦冥利に尽きるといった感覚に時折は打ち震えるということになるのであろう。
一夜明けて早朝。
門の開く音がし、わたしは耳を澄ませた。
音が玄関を伝って、階段を上がるのが分かった。
長男が夜行バスで卒業旅行から帰ってきたのだった。
音がキッチンに居を定め音が音を呼んで賑々しい。
おそらく彼は空腹。
手当たり次第そこらのものを食べて飲んでいるのに違いない。
音を通じ息子の帰りをありありと感じ、生気あふれたその物音に深い愛着を覚えた。