大阪が活動の中心であるから星光受かったよといった話をたまに耳にする。
たいていは仕事を通じての知人の子の話。
どちらかと言えば疎遠な関係であるから近況を継続的に聞くことはない。
それでも母校の後輩であることに違いはないので忘れることもない。
そして5年や6年などあっという間に過ぎ去って以降何も話が聞こえてこないと、気になるということのほどはなくても忘れることもないのでたまに思い出すことになる。
昨夕、ハマチにタイに中トロといった白身赤身折り混ざった刺し身を家内と分け合って一緒に白ワインを飲みつつ、長男の近況情報を西大和同窓会のページに入力していたからだろう、その「たまに思い出す」ということが起こった。
西大和では卒業生と保護者にIDとパスワードが配布され、ログインすれば同窓会の情報にアクセスできる。
これは便利であり先々どんどん有用さを増すこと間違いないので、長男の登録も必須。
そう思って、新しい地で風邪をひいて寝込む本人に変わってわたしがログインし進学先やら新住所やらメールアドレスを入力していたのだった。
星光では昨年、同窓会によって卒業生全員を対象とした名簿づくりが企画され、先日完成を見た。
現状を尋ねるハガキが学校から卒業生全員に発せられ、宛先不明で本人に届かない場合は親元に送付され、それでも消息つかめない場合は同期の友人らの伝手をたどって行方を追った。
おいしいワインを飲んで頭が冴えたからだろう。
近況が聞こえてこない知人の子についてもその名簿を見ればどこで何をしているのか一目瞭然。
そう閃いて、棚の奥にしまってあったずっしり重い名簿を手に取ったのだった。
ページを繰ってほどなくその名を見つけた。
ところがそこには名があるだけで、その他の情報である住所も職業も進学先もすべてが空欄だった。
もちろん名簿の記載に空欄がある、ということは珍しくない。
母校を嫌って、一切縁を断つ。
そんな卒業生はどの学年もいて、そういった存在が生まれる確率をゼロにすることなどできやしない。
しかし、そんな卒業生であっても、せめてものプライドか進学先くらいは記載があるし、そうでなくても職業や親から学校に伝えられた現住所、それがなくても帰省先である当の親の住所など何かしらの手がかりや断片が残されている。
だから、全部が空欄というのは、よほどのこと、ということになる。
他人事ではなく、いつだってなんだって紙一重であり我が事になりえる。
家内と話す。
子らを学校に通わせたわずか数年間でさえエピソードに富み、様々なケースを見聞することになった。
楽しく嬉しい類の話ばかりではなく、10代というのは、本当にいろいろなことが起こり得る。
中学に合格したとき、これで全部オッケーと思いがちだが、すぐさま地味な日常が再び始まり、そこで瞬時に地道な歩みを取り戻さねば、いつのまにか思っていたのとは全く異なる展開に巻き込まれ、いったんそうなると、確率という神のいたずらに弄ばれるようなもの、誰かはそうなるという思いもしなかった不本意な道行きを歩むことになってその流れに抗うことができなくなっていく。
すべて空欄であれば不在も同然。
どこかで元気にやっているのかもしれないが、びしっと中身満載の名簿のなかそこだけ白抜きだと、行方不明という風に映ってやはりどうしてもめでたいようなことには思えない。
もしせっかく名付けた我が子の名が何も羽織らず寒空に震えるみたいに無にかたどられていればいたたまれない、そしてもちろん誰か他人の子であってもそれはやはりいたたまれない。
何かつかめれば追記を要請したいところだが、分厚く重い星光の名簿を再編集するとなると、かかる労力は膨大で費用もかさむ。
そういう意味で、西大和みたいに気が向けば手軽にログインし入力できて交流もできる、そんな調製の仕方が実用的で合理的と言えるのではないだろうか。
手軽にアクセスし各自が各自の近況情報を随時に編集できれば、余白はもっと少なくなって交流は密となり、時間追うごとその集積の価値は太く濃くますます大きくなるように思える。