目に浮かぶ。
自分が死んだとき、友人らがわたしのために線香を手向けてくれる。
死んでしまってはその香りを感じることなどできやしないが、いまありありとその匂いを思い浮かべることができる。
それで十分心が満ちる。
忙しいのにわざわざ足運んでもらってごめんねと皆に詫びつつ同時に心からありがとうと思え感謝の念が湧いてくる。
棺桶のなか引きこもるなど申し訳なく、存命中なら這い出てでも挨拶するだろうが、死ねばぴくりとも動くことができず、わたしはもはや存在しないので非礼について恐縮したり来訪を喜んだりすることはできない。
だから想像での話に過ぎないのであるが、皆に温かく見送ってもらえることは確かなことだろう。
そして生き終えた結果はそれで十分だと思うのだ。
死ねば一切が無になって、だから温かかろうが冷たかろうが、線香であろうが投石であろうが、すべてがどうでもいい。
そう思う気持ちも分からないではないが、人の一生をひとつの物語として捉えれば死ねば終わりではなく続きがあって、分岐したり細切れになったりしながらもその物語は近しい誰かに受け継がれていく。
ということは、死んで自分の出番がなくなるところまではしっかり走り切り、つまりきちんと人と付き合い役割を果たし、ささやか拍手を受けてはみかみながら退場するというのが正しい在り方だということになる。
時間の尺を長くとってものを思うと、内なる善に陽が当たり人としてきちんとしようとの意識が稼働する。
そのポカポカ感は、遠い時間をサバイバルしてきた遺伝子らによる全会一致を意味しているとも解釈できる。
先日、24期の先輩と話していてびっくりした。
24期ではすでに11名の方が物故者となっている。
それで家に帰って名簿を開き数字を追って沈思することになった。
24期から向こうの期は大体二桁で、遡っていくごとまるで注目ルーキーの柵越えの数のように増え数十人規模に至る。
いつか33期においても。
数十人規模があちら側へと赴き、いくつかの記憶が残るだけで風の噂も聞こえてこないということになる。
いつでも会える。
そう思えば会うことの意味を問うことなどない。
しかし、もう会えないと思えば、その存在の意味を考え始めることになり、そしてその意味を確かめたいような気持ちになってくる。
「おまえに会えてよかったよ」
会えば言葉にせずともその思いを伝えることができる。
男にとって最上級の敬意の言葉を言いそびれずに伝えられれば、いずれすべてが散って消え去るにせよ、それら個別の出会いはまるごとハッピーエンドだったことになる。
結末はハッピーエンドの方がいい。
最後に役割が残るとして、これ以上に大事なことがあるだろうか。