大家族が集まって過ごすシーンがいい、と二男は言った。
先日観た映画『グリーンブック』のなか、イタリア系移民の家族が集ってわいわいがやがや賑やか過ごす場面が幾つもあった。
憎まれ口も飛び交うがそれこそ仲がいいからであって、陽気で気の置けない人間関係にわたしも心温まるものを感じた。
それが二男には理想図に思えたようだった。
このGW、たとえば家内の友人家族は全国津々浦々から集結し、両親を源流とし生まれ出た兄弟姉妹そしてその孫たちに至る親子三代で過ごした。
また例えばGW直前、わたしが訪れた会社の社長は「明日、みんな集まる」と言って顔を綻ばせた。
聞けば東京から息子と娘らが家族を引き連れやってきて、日曜はどこそこ、月曜はどこそこといった風に食事してまわり、後半は娘婿2人と息子と一緒に連日ゴルフを楽しむ。
嬉しくてたまらないといった様子で話す社長の姿に触れ、晩年に差し掛かれば差し掛かるほど家族の輪が喜びをもたらすのだと実感した。
その一方、盆であろうが正月であろうがGWであろうが近くに住んでいてさえ互い近寄りもしないという兄弟姉妹もある。
血は水より濃く、結束をもたらすのでなければ反目を生み、そうなるとまるで磁石の同極同士、集うなど物理的に不可能という話になる。
二男なりの目線で、そういった極端な差異について思うところがあってもおかしくない。
異なるにしても多少異なるといった程度が日本のスタンダードであるから、同じ家族なのに正反対といった様を身近で目の当たりにすれば、いったいこれは何なのだと注意が向くのも当然だろう。
何をきっかけにしてか芯が弱まると近い間柄でも訣別が生じ、そうなると覆水盆に返らずで分岐は逆向きには進まない。
核家族化の流れは止まらず日本の衰退も相俟って今後ますます増大する不可逆な分岐はもう分断と呼ぶしかない域に達するのだろう。
こんなとき目を向けるべきは仲間。
人間はなにも家族だけで群れを構成してきた訳ではない。
いまある人間関係を大事にしつつ、袂を分かった相手については振り返らない。
そう腹を括って、いい、と思える人間関係を自らが進んで構築し関係を深めていけばいいのだと思う。
芯があるならミニイタリアン程度の小集団は組成できそれはそれ自体で豊かなことだろう。
先日部活の合宿で身を寄せ合うように雑魚寝した高二の男8人のメンバーなんて最高。
苦楽ともにする骨太男子が束になって芯となり、そこに縁ある家族が連なってちょっとしたミニイタリアンファミリーができあがる。
映画でインスパイアされた理想図の実現は案外簡単なことではないだろうか。

