本屋で何度も目についてかれこれ数年。
身も蓋もないタイトルに忌避感を覚え手に取ることはなかった。
が、これだけ売れ続けているのには訳があるのだろうと思い田村耕太郎さんの『頭に来てもアホとは戦うな! 』を遅ればせながら購入した。
やはり食わず嫌いはよくないということだろう。
まずなにより文章が読みやすい。
平易かつ的確な言葉でリズムよく文章が流れるので、著者の放つ思いが鮮度そのままで伝わり、すらすら読めてどんどん引き込まれていくことになる。
これはかなりの文章力である。
そして、およそ世に生きるすべての人を苦しめてやまない「アホ」に対する考え方や接し方があらゆる角度から述べられて、実に大いに参考になってかつ溜飲も下がる。
誰もが苦心し、失敗と反省を繰り返しながらという迂遠なやり方で学び取っていくひとつひとつの叡智が、ずらり贅沢ふんだんに網羅され、「アホ四十八手」とも言うべき実用書となり得ていて、よって必携の書とも言えるだろう。
だから当然、今度長男に荷物を送る際にはこの本を忍ばせることになる。
さて、長男には本書についてどう説明しよう。
そう考えはじめ、思考が「アホ」というものに迫りはじめてすぐに気づいた。
アホらしい。
本当にアホだと思う人がいたとして、その人の言葉や態度が気に掛かるということがあるだろうか。
例えば、はるか彼方に群居して瞬くアホの銀河を見上げ、あ、アホだと漠然と思うことはあっても、それら星屑の挙動に気を揉むことなどあり得ないことだろう。
つまり、アホと突き放しつつも気になって仕方ない存在が山ほどもいて、誰にとっても心当たりがあるから、こういった本が売れることになる。
アホという言葉で遮断しなければならないのは、実は自身の内に巣食う、説き伏せたい、認められたい、振り向いてもらいたい、理解を得たい、といった未成就の願望であり、それが叶わないから平静でいられず時に苦しいほどだから、魔法の呪文としてアホという言葉が必要になる。
言い換えればまさにすっぱいブドウの類の話であり、どうせあいつはアホだから気にしても仕方ないと自らを納得させ心の平穏を保とうとするのと同じことである。
だから要約するなら、気になって仕方のないアホは自身の影であり、その影があさましくさもしくならぬよう無化消毒し、耐え難きを耐え健やか生きるための自己矯正の書と言った方が本質をついているのではないだろうか。
アホ言うもんがアホ。
ナニワのちびっ子は真実を見抜いていた。
他人は自らの鏡であって、そこに自身のアホが投影されて映るだけであるからアホ問題とはそれが気になる時点で自らの問題。
自らのアホをこそ直視し少しでもマシな人間にならねばならずそれが肝心であって、やはり人のことをアホなんて言うもんではないだろう。