仕事に明け暮れもっぱらの話し相手が家族や友人に限られたまにのぞく外界がネットばかりだと認知が歪む。
限定的で特異な世界をノーマルなものと認識してしまい、その誤解と曲解に気づけない。
特に「生き死に」についての話は談笑のなかで出現すること極めて少なく、SNS的いいねの世界にあっては対極とも言え目にすることがない。
だから、NHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』といった番組を時折は見て、歪んだ世界観をただしそもそもの原点に立ち返らなければならない。
生きている限りいつか必ず、わたしたちは死に直面する。
突如ぽっくり逝くこともあるだろうし、病に蝕まれじわじわと死に迫られるということもあるだろう。
死に際がどのようなものか見通せないにしても遅かれ早かれ、彼も死に彼女も死にそしてわたしも死ぬし、避けられない。
それなのにうっかりするとわたしたちはそんな根源的なことを忘れ去り、いつまでも生は尽きないのだと錯覚し貴重な生を有難がることなく瑣末事にうつつ抜かしてさんざめく。
番組のなか、実際に安楽死していく方の様子が映し出された。
その場でいままで話していた人が、一瞬後、眠るように死を迎える。
それを見てつい涙が浮かんでしまうのは、死というものが理解の範疇を越えどう感じていいのか訳が分からないといった心境に陥るからだろう。
それはまさに、何かが不可逆に奪われる、という過程としか言いようがなく、ただただ身がすくむ。
これ以上家族に迷惑をかけたくないから。
死へと背中を押すその理由が分からないでもないが、しかし失うものが大き過ぎるように思えそのビフォーアフターの不連続と不整合に首肯し難いものを感じざるを得なかった。
一方、同じ不治の病に侵されながらも人口呼吸器をつけ生き続けることを選択した女性があった。
目の開閉くらいでしか意思表示ができないが、目にしっかりと光が宿りカラダは動かずとも一個の尊厳ある人間であるのだとその目が雄弁に物語っていた。
施設で暮らす春、女性は半日だけ里帰りを許可された。
ちょうど桜が満開の頃。
クルマの窓から見える桜並木を彼女の目が捉え、その目からみるみる涙が溢れ出した。
その内側にわたしたちと同様「わたし」という尊ぶべき広大無辺な世界が息づいている。
その奇跡の世界は一度失われるともう取り返しがつかない。
安楽湯という温泉の名ならいざ知らず、やはりどう考えても死については「安楽」といったほんわか心満ちるような言葉で語ってはならないだろう。