仕事を終え中央大通を丼池筋に向かって歩いた。
わたしの姿を見つけると家内が助手席に移動したので、わたしは運転席の側に乗り込んだ。
さて、どこへ行こうか。
話し合うこと数秒。
クルマを走らせ向かうは芦屋。
土山人で夕飯をとることにした。
午後6時を回っても西陽は北寄りの高い位置にあってまだまだ明るい。
そういえば夏至間近。
まもなく不滅の夏がやってくる。
芦屋に着いた頃ようやく日が沈んだ。
頰を撫でる涼風に心ほころばせつつ残照に染まる芦屋の街を二人で歩いて土山人の引き戸を開けた。
蕎麦屋であるからまずは冷酒。
そして前菜としてアボガドの包み揚げと巻き寿司を頼んだ。
少し小腹が埋まった絶妙なタイミングで冷たいすだち蕎麦と天ぷらが運ばれてきた。
おいしい、おいしいと頷き合って蕎麦をすすって家内が言った。
今度、ぴょんぴょん舎の冷麺を上の息子に送る。
冷たく締まって美味しい蕎麦が盛岡冷麺を想起させたのだろう。
続いて言う。
今度、下の息子も土山人に連れてくる。
家内については、いつ何時も息子の事が先にくる。
美味しいものに触れると必ず子らの姿が頭に浮かんでそれを共有せずにはいられない。
帰りは家内がハンドルを握った。
2号線に出たところでパン屋のビゴの前をいったん通り過ぎ、二男のためにパンを買おうと思い立って急停車。
ぶううんと勢いよくバックしパン屋の前にクルマを横付けした。
いつ何時も息子に食べさせるものについて考えている家内である。
急停車やバックなど当たり前の話であった。
家内は二人の息子に対し分け隔てがない。
どちらにも最善を尽くし千の愛情を注ぐ。
だからそこに差の生じる余地がない。
クルマのなかで家内を待ちながら想像してみる。
もし万が一、注ぐ愛情に差があったらどうなるのだろう。
例えば、息子のうち一人が歳の割にはしっかり者で、別の一人がやや不出来。
こんな場合、母性愛は不出来な方に傾くのではないだろうか。
しっかり者はしっかりしているからと全般的に放置され、不出来な方は不出来であればあるほど注意向けられ、助けを必要とする者は本能的に愛嬌振りまくのでより一層可愛いがられる。
結果、ほんの少しの出来の差が巨大な愛情格差を招いて累積し、しっかり者にとっては面白いはずがなく、不出来が家に居座るせいでくつろぐ場所もなく、早晩、家族のなかからいち抜けたとなってもおかしくない。
そして見る間に足が遠のき、去る者日々に疎しで家族の近況を知らず、そのうち知ったことではないという話になっていく。
そうなると同じ幸福を共有するメンバーであったはずが他人行儀どころか利害対立する者となるのも時間の問題。
しかも敵に回せばかなり手強い。
なるほど家族と他人は紙一重。
そこまで空想を巡らせたところでパンを抱えて家内が戻り、わたしは現実に引き戻された。
うちでは上の息子も下の息子も個性違えど総合的な出来栄えは均衡している。
トラとライオン、金太郎と桃太郎といったようなもの。
どちらの存在も絶対的で親として注ぐ愛情は常にハイオク満タン。
やはりどこにも差の付け入る余地がない。
だからこのまま互いその幸福をともに喜び合える家族であり続けることを切に願う。