相手の話が全く理解できない。
稀にそういうことがある。
一つ一つの言葉の意味は分かっても、流れが見えず筋が辿れない。
置いてけぼりとなっているから相手が笑っているところで笑えない。
しかし困惑を悟られぬよう、相手が笑えば当意即妙、わたしも笑顔を作る。
が、この笑顔は怯えに近い。
だから相槌は大仰なものとなる。
いったん話が終わってほっとするのも束の間。
続いてのセットが始まる。
サーブが入ってくるがやはりボールが見えない。
仕方ないので打ち返すふりはする。
不思議なことにラリーのようなものが続く。
年季のなせる業だろう。
が当然、手応えはなく心許ない状態が引き続く。
願いは一つ。
早く終わってほしい。
苦しい時間が積み重なっていくが、相手のネタが尽きればやがて話も終わる。
ああ、喋った喋ったと相手は満足し、解放されてわたしは心底安堵し握手交わして試合終了。
年季の嵩だけが増して後には何も残らない。
息子が塾の先生のバイトをはじめる。
わたしは大賛成である。
どのようにすれば伝わるか。
教わる生徒にも増して学びを得るのは彼自身だろう。
何を伝えたいのかまずは本人がそれを理解していなければならない。
世には何かを伝えるつもりで、実のところ俺は偉いだの俺は賢いおれは面白い俺は凄いといったことだけを話しているような人もいる。
そうなると、伝えねばならない肝心要は伝わらず、偉いだの賢いといったことも伝わらない。
だから心得違いが起こらぬよう、いったんエゴを消して伝えることのエッセンスを見定めるという濾過のプロセスが必要となる。
そして続いては、拠って立つ話の前提、伝える際の話の長さ、話す緩急、尖りや丸みといった起伏、声の大小、織り交ぜる語彙となぞらえる比喩、相手の咀嚼具合を計るための区切り、先へといざなうための見通しの提示などについて、話す随所で意識的にならなければならない。
非日常的な言語表現が可となる場合はフィーリングトークも芸のうちであり、自己完結していても実害はないが、日常の言語空間では相手あってこその話となるので、細心の注意、つまり言葉の届き具合を推し量るような思いやりが欠かせない。
知っておかねばならないが、日常の言葉遣いが人間関係を規定する。
夫婦、友人、仕事すべての人間関係において言葉遣いが影響を及ぼし、言葉遣いを変えれば人間関係も塗り替わると言っていいほどである。
そのわきまえの有無が、自身に集まる人の多寡を決めることになるだろう。