KORANIKATARU

子らに語る時々日記

一手間、二手間を惜しまない

事務所に寄った家内と一緒に帰ろうと思ったが急遽仕事が入った。

先に家内が帰り、わたしは一時間ほど遅れての帰宅となった。

 

すでに風呂と食事の用意ができていてまず先に風呂を済ませリビングに上がった。

 

キンキンに冷えたグラスにビール注いで乾杯。

前菜は、おからがたっぷり載った豆腐と昨日届いて無尽蔵にある枝豆。

 

揃って次にハイボールに移り、カツオのたたきを賞味した。

 

帰り道、魚屋の店主がカツオを強く勧めてきたのだという。

身が分厚くて食べごたえあり新鮮だから甘みもある。

 

美味しく食べねば勿体ない、家内はそう思った。

それで市場で玉ねぎ、紫蘇の葉、にんにくを買った。

 

カツオのたたきを美味しくいただくための三種の神器が揃ったのであるから、美味しいのは当たり前のことだった。

旭ポン酢を上からひたして、家内と分けた。

 

こういった一手間、二手間を惜しまない家内の性分に頭が下がる。

 

心のなかで頭を下げて思う。

些細な一手間、二手間が相乗効果となって波及し、家族相互によき影響を及ぼし合っているのではないか。

 

わたしは仕事を頑張り、家内は家事を頑張り、だから子らも自然、運動や勉強に精を出す。

子らが頑張るからわたしも頑張り、さらに家内も頑張り、それで子らもまた頑張る。

この循環を支えているのが、実は些細な一手間、二手間であり、これがなければネジがゆるんですべてが瓦解する工作物みたく、家族の有り様は大きく様変わりすることだろう。

 

まず肝心なのが役割で、そこで一手間、二手間惜しまない心がけがものを言うことになる。

 

ささやかであれ仕事があってほんとうに良かった。

わたしは心底そう思った。

 

仕事がなければ誇りはなく、家族に頑張る後ろ姿を見せることができないから卑屈になって根性がゆがむ。

家族好循環の歯車は狂い出し、軋んで発する悪念が家族全部を覆いかねない。

 

これはお金の有無とはまた別の話だろう。

仕事せずとも食べてゆける財産持ちや、何もせずとも身内の会社から報酬が支払われて経費も使える、という境遇など喉から手が出るほど羨ましい限りであるが、下手すれば本質はニートと似たようなものであるから、家庭内の好循環には寄与しないかもしれず、寄与するどころか、家族みながお金をなめて世間をなめてということになりかねず、そんな環境で育った子は、たとえ千の力を携えて誕生しても、そのうち二、三しか開花せず、ゆりかごの中スヤスヤ寝入って、眠れる獅子のままであり続けるといったことになるかもしれない。

 

やはり人を磨くのは、自身に降りかかる労苦であり、身近なものに訪れる労苦なのだろう。

負荷があってこそ、頭が働き心身が活性化され、共感が生まれ結束も固くなる。

誰かのための意味ある一手間、二手間はそんな土壌にあってこそ生まれるものではないだろうか。

 

たとえば西大和東大クラスの面々。

卒業後もしょっちゅう集まって実に仲がいい。

これも、中1から揉まれ鍛えられ数々のイベントに力を合わせて挑み海外を体験し高3では熾烈な受験勉強の時間を共有したからこそのこと。

 

東大に行った者、東大以外に行った者、捲土重来を期す者。

進む道は様々となったが、こまめに連絡を取り互いが互いに関心を寄せ合い励まし合っている。

 

その様子を傍から見るにつけ、数年越しで熟成された友情という太い絆で彼らはこの先もずっと繋がり続けていくのだと確信できる。

 

緩さは楽だが時に害あって軽さは無。

弱い場所でつるんでも成長はなく空疎な空転だけが積み重なっていく。

 

いくら積み上げてもゼロなのだから、そんな場所で一手間、二手間弄しても、上滑りなコミュニケーションになるだけであり、せいぜいがありがた迷惑、大半は忘却の彼方ということになる。

まったくもって無であるから、それなら蚊帳の外に置かれる方がよほどマシというものだろう。

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2008年8月3日尾道 七歳と五歳