立花駅で途中下車し正宗屋に向かった。
この日、家内は留守。
フランスからやってきた友人らを奈良に案内し夕飯もともにするという。
わたしも誘われたが遠出する気になれず遠慮した。
なにせ翌日は朝4時からの始動となる。
そんなときはさっさと飯食って早めに寝るのが仕事人としての心得と言えるだろう。
暖簾をくぐってカウンター席に腰掛けた。
ここではどこの誰でもない無名の人間としてすべての役割から解放される。
喧騒に身をひたせばひたすほど、無が深まって心が安らぐ。
これがいいと思うストライクゾーンは人によって異なる。
それは各自に固有のものであり、持って生まれた本性がベースとなって諸要素絡み合って長い時間をかけて形成される。
裏を返せば、人は本質的には変われない。
だから自己変革を唱える啓発系ノウハウのほとんどはおとぎ話みたいな変身譚と話半分で聞き流すのが正しい、ということになる。
もちろん、生きた結果としての表層部については変わり得るのだろう。
すべてがあらかじめ決定されている訳ではなく、心がけや行動はほんの少しなら変えることができ塵も積もれば山となるといった長い時間を経れば、そこそこ見違える。
そうでなければ、成長という語を辞書から抹消しなければならなくなる。
つまり成長は足元の一歩から始まる長期計画と言え、だから歩幅と歩数が肝心で、物心ついた頃からの積み重ねとなることを思えば、自分に無理を強いるような負荷では継続不能、と分かる。
やはり、ぼちぼちという言葉が至言。
成長というフェーズにフォーカスすればそう思い当たることになる。
そのボチボチの成れの果て、その集大成がいまの自分。
良きにつけ悪しきにつけ、こんなもんですが、それが何か?という話であって、当事者にとって受け止め方は様々だろうが、どうせなら不首尾を悔いて気後れするより、これが唯一無二の個性なのだと堂々とするのがいいように思う。
この歳になるととてもよく理解できる。
そこだけを取り出し矯めつ眇めつできる独立した欠点など存在せず、実はその短所こそが長所と深い部分で呼応し合って人に陰影、つまりは魅力を与える。
長や短だけ切り分けることなどできず、長短あい合わさってその人が形作られているということであり、その人を好きだと思う場合、その長にも短にも好感を覚えているはずなのである。
正宗屋の快適にひたりつつその一隅で、家族のことが頭に浮かぶ。
すべてひっくるめて愛おしい。
わたしの心はそう言った。