長男の友だちもよくうちに泊まりにくるし、二男の友だちも同様。
同じ10代であるから似たようなものに見え、しかし実のところその内実は大いに異なる。
その違いについて家内が述懐する。
西大和の子らは普通の男子に見えてしかしどこかに鋭さを秘めていて、何かしら緊張を強いるような雰囲気があった。
だから彼らが食事する様子など撮影する際は少なからず躊躇した。
一方、星光の子らは見たとおりにそのまま穏やかで柔和。
気兼ねなくカメラを向けることができたし、気軽にポーズもとってくれた。
なるほど、とわたしも思う。
何事も十把一絡げに語れるものでないが一理ある。
漫画でたとえるなら、日向小次郎が束になったような西大和と岬くんたちが集う大阪星光と言えるかもしれない。
もちろん、うちの長男が日向小次郎を、二男が岬くんを引きつけやすいタイプであったという可能性もないとは言えないが、長男と二男を入れ替えても同様の友だち関係になったと思えるから、やはりここは学校の違いが何か差を生じせしめていると考えるのが自然だろう。
のどかな草原で悠々と育てば岬くんになり、海流がぶつかり合う潮目で育てば日向小次郎になる。
たとえばそんな仮定をしたうえで彼らを見渡せば筋が通りそうな気がする。
昨日、長男から電話がかかってきた。
出場した試合についての報告であったが、附随する雑談でいまもしょっちゅう西大和メンバーと会っているということが分かった。
東大&慶應メンバーらで事あるごとに集まって飯を食い下宿に泊まり合っていると聞いて、微笑ましくかつ安心感を覚えた。
交流のなかに需要と供給の本質が潜む。
そしてその交換の過程を通じてはじめて上位の価値が生まれることになる。
友人とのギブ&テイクで行き交うのは、単なる利害といった薄っぺらなものではない。
金銭的な尺度で測れるものでは決してなく、だから、マウンティングとやらで互いに争奪し合えるようなものからも程遠い。
そこではまさに価値が行き来していて、ちょっとやそっとでは言語化できないが、そこに着目すれば自身が何を発しているのかが垣間見えることになる。
将来どのような仕事を生業にするにせよ、自身固有の「何か」を知ると知らぬとで差は激甚だろう。
世に取引される実物の背後に潜むその「何か」こそが、実はやりとりされている。
それを知らねば、需要も供給もあったものではない。
それほど大事なその「何か」であるが、それは友人との付き合いの中に置かれてはじめて見えてくる。
だから、息子らが友だちと交流すれば交流するほど親は嬉しい。
まさに自身の価値を発見するプロセスのなかにいるのであり、長く続けば続くほどそのプロセスが深まっていくのであるから、一人で本を読むよりはるかに貴重な情報源に接していると言える。
そして今後、草原と潮目は大学などで出合うことになる。
そこで互いにないものを補い合い、つまり価値を交換し、社会というフィールドにおいては切磋琢磨しつつ力を合わせることになるだろう。
長男と二男は別々の学校に進んだが、これはこれでたいそう意味深いことであったといま思える。